瞬が俺を必要としていなくても、俺には瞬が必要だ。 瞬が俺を愛していなくても、俺は瞬を愛している。 俺は瞬を失いたくないし、他の誰にも奪われたくない。 俺は、だから、その日、瞬の部屋に行ったんだ。 何もない日――平和で穏やかな一日が終わりかけている ある夜を選んで。 瞬の部屋に行き、俺は瞬に、 「おまえが欲しい」 と告げた。 多分、俺は思い詰めた目をしていただろう。 視線を落としていた本を閉じ、掛けていた椅子から立ち上がって、すぐに瞬は俺の側に駆け寄ってきた。 その手で俺の頬に触れ、心配そうな目をして、瞬が俺を見上げてくる。 「……何かあったの? 何か悲しいことが?」 気遣わしげな目と優しい声で、瞬は俺に尋ねてきた。 「……」 瞬の目には、俺が、そんな時にだけ瞬を利用して自分の心を慰めようとする卑怯者に映っているんだろうか。 そう思うと――俺はそう思わざるを得なかった――俺は胸に鋭い針を刺されたような痛みを覚えた。 「俺は、おまえが――」 今更言っても詮無いことなのかもしれない――と思わないでもなかったが、俺は瞬に言わずにはいられなかった。 俺の気持ちを。 俺がどんなに――ガキの頃から、俺がどんなに瞬を好きだったのかを。 「俺は、おまえが好きで好きで、側にいてもらえないと苦しい。離れているとつらい」 「え……?」 俺の告白は覇気のないものだったし、やはりどこかに甘えを含んだものだったと思う。 瞬に支えていてもらえないと、瞬に側にいてもらえないと、俺はまともに立ってもいられないなんて、そんな告白は瞬にとっては迷惑で重荷にしかならないものだったろう。 だが、俺は嘘はつけなかった。 それが俺の本音だった。 俺の本音を聞かされた瞬は その瞳を見開き、しばらく困惑したように落ち着かない目で俺を見上げ、見詰めていた。 そして最後にぽっと頬を上気させ、恥ずかしそうに瞼を伏せた。 「あの……氷河が僕を好きって、ほんと?」 やはり瞬は、 わざわざ改めて宣言しなくても知っていてくれるだろうと決めつけて、俺が言わずにいた その事実を。 瞬は俺の気持ちを知らずに、傷付いた我儘な子供を放っておけなくて、俺を受け止めることで俺に目隠しをしてくれていたんだ。 「好きでもない相手に、あんなことができるか」 いくら綺麗でも、瞬は男だ。 いくら俺が非力で哀れな子供でも――いや、だからこそ――我儘な子供だからこそ、俺は好きな相手しか見ない。 「で……できる人もいるって聞いたから」 「誰に。誰がそんなことをおまえに言ったんだ」 「誰に言われたっていうわけじゃないけど、氷河が……」 「俺が?」 「氷河は僕を好きだなんて、一度もそんなこと言ってくれなかったし、だから氷河は好きじゃなくてもそういうことができるんだろうって――。十二宮の戦いのあと、氷河はすごく沈んでて、だから、一人でいるのが嫌で、誰でもいいから慰めてほしかったんだろう――って、そう……」 そう、瞬は思ったのか――。 そうだな、瞬がそう思っても、少しも不思議じゃない。 現に俺は瞬に『好きだ』なんて、一言も言わなかった。 「おまえはそうだったのか? だから、そんなふうに考えたのか? だから俺を哀れんで、戦いがあるたび、俺を慰めにきてくれたのか? おまえは俺に――同情していただけだったんだろうか」 その質問を口にするのに、俺はかなりの気力と勇気を要した。 その通りだと答えられたら、俺は世界で最もみじめな男になる。 半ばそうなることを覚悟して、勇気を振り絞って口にした俺の問いかけに、だが、瞬はすぐに首を横に振ってくれた。 「同情で あんな痛いことが我慢できるほど、僕は殊勝な人間じゃありません!」 「い……痛いのか、そんなに」 瞬の丁寧語と剣幕にたじろいで、俺はどもりながら瞬に尋ね返していた。 我ながら、仕様のないことを訊いたものだ。 「そりゃあ、痛いよ……」 「そうか……悪かった」 瞬が我が身を傷付けることを望んで俺の許に来るのでなかったら、俺との行為なんて、瞬には苦痛以外の何ものでもないだろう。 そんな、考えるまでもない当たりまえのことを知らされて、俺は肩を落とした。 瞬が、そんな俺に慌てたように語気を強くする。 「あ……あの、でも、僕、痛いの好きみたいなの……!」 「痛いのが好き――って」 瞬にはそういう特殊な趣味があったのかと、俺は馬鹿なことを考えた。 俺の馬鹿な考えを察したらしく、瞬が意地を張ったように言い募る。 「へ……変な意味じゃなくて、僕は、氷河が僕の側にいてくれるだけでも、僕を見てくれるだけでも――氷河になら何をされても嬉しいっていうだけで、もちろん子供の頃みたいに手を繋いで眠るのも嫌じゃないし 安心できるけど、痛いのはもっと気持ちよくて――あの、変な意味じゃなくてね!」 「それは十分 変なことだ」 瞬が弁明を重ねるほどに、瞬の変人振りが鮮明になる。 こんな俺に あんなことをされるのが嬉しいなんて、瞬は十分に 俺がそんなことを断言したから――瞬は俺に非難されたのだと思ったらしい。 瞬は眉根を寄せて、泣きそうな目になった。 瞬は本当に 罪作りなほど可愛い。 本当は誰よりも強いくせに、いつも こんなふうに心細そうな様子を見せて、俺の心をかき乱すんだから。 「俺は嬉しいが」 泣きそうな目をした瞬の髪に指を絡め、俺は瞬の唇に唇を重ねた。 「俺はおまえが好きなんだ。好きだから、こういうことをする」 「ひょう……が……」 「ガキの頃だって、寂しがっているのが おまえだったから、だから俺は おまえのベッドに潜り込んでいったんだ。あれが他の奴だったら、たとえ そいつが俺と同じように母親を恋しがって泣いているのだとしても、俺はただ うるさいと思うだけだったはずだ」 寂しがって泣くだけなら、誰にでもできる――俺のように。 だが、そんな俺のために涙を浮かべ、俺の心を慰めようとしてくれたのは、瞬だけだった。 子供の頃も、そして今も、瞬だけ。瞬だけだ。 俺に抱きしめられた瞬が、俺の胸の中で首を横に振る。 そして、瞬は、実に思いがけないことを言い出した。 「そんなこと言うけど――氷河は本当は誰にでも優しいと思う」 「まさか」 「優しいよ。優しいの。氷河がみんなに素っ気ないのは、その人に触れることで その人を傷付けたくないって思ってるからだもの。氷河は優しくて――それはいいことのはずなのに、僕は、氷河に僕以外の人には あんまり優しくしてほしくない。――やっぱり変だよね、僕」 『変だよね』と念を押されれば、俺は、それは確かに瞬らしくないことだと答えるしかなかった。 俺は嬉しいが、それは決して瞬らしいことではない。 俺は、瞬こそが誰にでも優しい人間なのだと思っていた。 現実にそうだったし、瞬は、人がそういうものであることに価値を見い出す人間のはずだ。 そう、俺は思っていた。 「子供の頃、僕、何度も氷河に目隠しをしにいったでしょう? 氷河が寂しそうにしてて、僕は、そんな氷河を見ているのが つらかったから そうせずにいられなかったんだって、ずっと思ってたけど、本当は――」 瞬が遠慮がちに俺の胸に手を伸ばしてくる。 「本当は、ああして目隠しすることで氷河の気を引いて、そして、僕は――氷河に僕を見てほしかったんだと思う。僕は子供の頃から、寂しがりやなくせに意地っ張りな氷河が大好きだったから」 「瞬……」 俺は――俺はその時、それこそ子供のように盛大に泣き出しそうになった。 『だーれだ』 ただ一人の肉親を失い、訳もわからないまま見知らぬ国に連れてこられ、自分が何者で何のために生きているのかさえわからず途方に暮れていた俺。 そんな俺に気付き、声をかけてくれたのは瞬だけだった。 師を失った時、旧友を失った時、俺を抱きしめ慰めてくれたのは瞬だけだった。 俺は、俺こそが瞬に目隠しをしてやり、瞬の孤独や傷心を癒してやっているつもりでいたのに、その実 瞬に守られ庇われていたのは俺の方だった。 俺を見てくれと、ずっと俺の側にいてくれと、瞬に訴え すがっていたのは俺の方だったんだ。 その時俺がガキのように泣きわめかずに済んだのは、瞬なしではいられないほど瞬を求めているものが、俺の心だけではなかったからだ。 馬鹿げた意地に囚われず、心より正直に瞬を求める肉欲に救われて、俺は瞬の前に醜態をさらさずに済んだのかもしれない。 大人になるというのはいいことだ。 子供じみた意地や見えを忘れ、素直に正直になることができる。 素直になれれば、人の優しい心も鮮明に見えてきて、その優しさを虚心に受け入れることもできるようになる。 「痛くても――俺のために我慢してくれ」 よくもそんなことが言えたものだと自分でも思うが、変人の瞬は素直に俺に頷いてくれた。 俺は瞬を好きで、瞬も俺を好きでいてくれて――その夜、俺たちは初めて互いに目隠しをせずに、互いを抱きしめ合って眠ったんだ。 『だーれだ』 瞬は今でも時々そう言って俺をからかってくるが、そういう時 俺はすぐに『瞬』と答えて振り返り、瞬の瞳を見詰めてやることにしている。 俺たちはもう、そんな戯れでしか目隠しを必要としていないから。 Fin.
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