「氷河って、なんでこんなに瞬に冷たくなったんだ?」
瞬が出ていったドアを心配顔で見詰めていた星矢は、そろそろ瞬が(なんとか無事に)厨房に到着した頃だろうという時間が過ぎてから、もう一人の仲間の方を振り返った。
「冷たい?」
紫龍が、思いがけない話を聞かされたというような顔をして、口をへの字に結んでいる星矢の上に視線を巡らせてくる。
鈍感・大様で売っている天馬座の聖闘士でも気付いていることに、切れさえしなければ冷静・慧眼で売っている龍座の聖闘士が気付いていないはずがない。
当然のことながら、星矢は、なぜ紫龍はこんな白々しい態度を見せるのかと思うことになったのである。

「あいつ、今日も瞬のいれたお茶を飲まなかった」
「ああ」
どうやら紫龍は、星矢が気付いていることに気付いていなかったわけではなく、それを“冷たい”ことと認識していなかっただけだったらしい。
あるいは、それを大した問題ではないと考えていただけだったらしい。
星矢は、だが、この事態を、捨て置けない問題をはらんだ大変な事態だと思っていた。

午後のひとときに飲むお茶。
血となり肉となる栄養を摂取するためというより、単に午後のひとときを憩うために飲むお茶の味に なぜ そこまで凝る必要があるのかとぼやく星矢を無視して、氷河と瞬が研究を重ね、そして ついに辿り着いた“完全に氷河の好みに合致した氷河のためのお茶”。
そのいれ方を知っているのは瞬だけで、瞬は毎日、(おそらく)心をこめて氷河のためにお茶をいれている。
そのお茶に口をつけずにいられる氷河の無神経――というより、非人情――が、大問題でなくて何だというのか。
星矢にとって、この事態は、決して看過することのできない深刻なトラブルであり、非常事態というより異常事態と言っていい事態だったのだ。

「いちばん氷河の好みをわかってる瞬が、氷河のために、それこそ細心の注意を払って いれたお茶に口もつけずに放っぽってさ、そのわりに、氷河は、ここのメイドが適当にいれたお茶は飲むんだよな」
氷河が瞬のいれたお茶に口をつけなくなった当初は、瞬も、
『氷河、好みが変わった?』
と、氷河に しきりに尋ねていた。
だが、尋ねるたびに沈黙の答えをしか返してもらえないことが続き、瞬はやがて 氷河に その訳を尋ねることをしなくなった。
それでも、もしかしたら氷河に飲んでもらえるかもしれないという一縷の希望にすがって、瞬は氷河のためにお茶をいれ続けているのだ。

瞬以外の者がいれたお茶は飲むのだから、氷河が何らかの理由で突然 紅茶が嫌いになったということは考えにくい。
万々が一、氷河の味覚が激変するようなことがあったのだとしたら、氷河は瞬に その旨を伝え、また二人で新たなお茶の味の探求を始めればいいだけのことである。
それが面倒だというのなら、せめて 瞬のために 口をつける真似くらいしてやってもいいではないか。
そう考えて、星矢は、氷河の心ない振舞いに憤りを感じていたのだった。

「氷河がお茶を飲んでくれなくなってもさ、瞬は、今でも毎日 葉っぱ蒸す時間を秒単位で計って、氷河のために お茶をいれてやってるんだぜ。なのにさ――」
「――」
気負い込んで氷河の無慈悲を訴える星矢に、紫龍は今ひとつ同調する気配を見せない。
氷河に対する以上に、そんな紫龍に苛立ちを覚え、星矢は更に氷河の無情を言い募り始めた。
「それだけじゃねーぞ。氷河の奴、昨日も、瞬が庭からとってきて ここに飾ってた花を、みすぼらしいとか何とか言って、捨てようとした! そりゃあさ、あれは確かにバラとか蘭みたいに派手な花じゃなくて、花壇の外に咲いてるような花だったけどさ、それだって瞬らしいセレクトじゃん。それを頭っから否定するようなことしやがって……!」
氷河の心ない振舞いに言及しているうちに、怒りに加速がついてくる。
ソファに掛けていた身体を前のめりにし、星矢は、反応の鈍い紫龍を怒鳴りつけた。

「こないだ、敵さんが来た時には、あいつ、瞬を厄介者扱いしやがった……!」
「ああ、あれは確かに少々問題が――」
その時の氷河の振舞いは、紫龍も見ていた。
数日前、おそらくは聖域の指示で沙織の命を奪うべく日本にやってきた数人の敵。
あの時、瞬は、どう考えても氷河の振舞いのせいで気分が沈み、覇気を失っていた。
瞬が遅れをとるほどの力を持った者とも思えなかったのだが、ともかく、瞬がその“敵”に あわやというところまで追い詰められたのは、紛う方なき事実だった。
他の敵の相手をしていた氷河は、自分に割り振られた敵を放っぽって、瞬と瞬の敵の許に移動し、瞬を追い詰めていた敵を一撃で打ち倒してしまったのだ。

氷河のその行動を、星矢は、瞬自身より喜んだかもしれない。
どうこう言っても氷河にとって 瞬は大切な仲間なのだという確信を得て安堵し、戦いの最中に笑顔を浮かべた星矢の様子も、紫龍は見ていた。

結果として、自分が倒すべきだった敵を氷河に倒してもらったことになった瞬は、喜びよりは戸惑いの勝った声で、
『ありがとう』
と氷河に礼を言い、そんな瞬に一瞥をくれてた氷河は、
『足手まといになるくらいなら、そんな奴は早々に戦線離脱してくれた方が、よほど俺たちも助かる。強い敵より弱い味方、利口な敵より馬鹿な味方の方が恐ろしいというのは、事実のようだな』
と吐き捨てるように言ったのだ。

あの日、星矢は、敵との戦いよりも、勝利を勝ち取ってからの戦後処理の方に はるかに多くの時間と労力を費やすことになった。
氷河の言葉に落ち込んでしまった瞬を慰めるのに、星矢はそれこそ東奔西走の(?)激務をこなさなければならなかったのだ。

「普通に瞬が話しかけていっても、聞こえてることを態度で示してから、氷河の奴は横を向くんだよな。前はあんなじゃなかっただろ。むしろ、氷河は瞬には特別に優しかった。一輝が裏切り者だった時にだって、だからこそ氷河は、瞬が一輝のせいで罪悪感を感じないように、瞬を気遣ってやってたみたいだった。なのに、なんで――」
「クールを気取っているだけなのではないのか?」
そう告げる紫龍の口調は、十中八九そうではないと思っている者のそれだった。
事態を深刻に憂える気配を一向に見せてくれない紫龍に、星矢が噛みついていく。
「クールってのは、自分に優しくしてくれる相手に素っ気なくすることなのかよ!」
興奮して吠え立てる小犬に噛みつかれた紫龍は、苦笑混じりに、噛みつかれた(?)右手を軽く振ることになったのである。

「まあ、いろいろある お年頃だからな。氷河が瞬に冷たくしているといっても、それはつまり、冷たいだけだろう。奴は瞬を無視しているわけではない。むしろ、意識しすぎるほど意識しているように、俺には見えるが」
「無視する方がまだましなんじゃねーか? 氷河のあれは、当てつけっぽいっていうか、ほとんど意地悪の域に入ってるっていうか――」
「無視するより 冷めたい方が、よほど温かい対応だろう。瞬にだけ冷たいというのは、つまり、奴が瞬にだけ特別な感情を抱いているということだ。氷河のあれは、好きな相手の気を引くために、わざと意地悪をする子供のようなものだ」

確かに、無視するよりは冷たい方が、相手を意識しているということではあるだろう。
星矢は、不承不承ではあるが、紫龍の言に頷くことになった。
「……そうなのかな。ならいいんだけどさー」
「『ならいい』のか?」
「え?」
想定外のところに突っ込まれてしまったのだろう。
星矢がきょとんとした顔になる。
紫龍の突っ込みの意図が理解できていないらしい星矢に、紫龍は愉快そうに含み笑いを洩らした。

「いや。俺も『ならいい』と思っているのは同じなんだが」
星矢の言を紫龍が愉快に思ったのは もちろん、氷河の“好きな相手”が氷河と同性だということに全く頓着していないらしい星矢の態度と意識について、だった。
そして、星矢と違って、瞬の性別に頓着していないわけではない自分も、星矢同様、『ならいい』と思っているという事実について、だったのである。

「ただ、氷河はそんなことをするほど子供だったろうかとは思うが……。いや、子供だったんだろうな。それ以外に、氷河が瞬にああいう態度をとる理由は考えられない。瞬は、人に嫌われるようなことのできる子ではないからな」
「ん……」
そうなのである。
紫龍の言う通りだった。
瞬は、人に嫌われるようなことのできる人間ではない。

瞬は善良で、差別意識がなく、誰に対しても――“敵”に対しても――まず好意と善意で接し、誰に対しても優しく親切な人間だった。
その上、瞬は人に頼るようなこともしない――少なくとも、自分から積極的に頼るようなことはしない。
星矢は そんな瞬といることが快かったし、そんな瞬が自分の仲間でよかったとも思っていた。
もちろん、仲間や友人に対してでなくても、瞬は お人よしと言っていいほどに優しく親切な人間で、ゆえに瞬といる人間は――端的に言えば、“得をする”ようにできている。
そんな瞬を嫌うのは、余程の馬鹿か 常軌を逸した ひねくれ者だと、星矢は思っていた。
だからこそ、星矢は 氷河の態度に納得がいかなかったのである。
だからこそ、星矢は、氷河が瞬への態度を豹変させた理由を氷河に訊くこともせずに、『悪いのは氷河だ』と一方的に決めつけていたのだった。

「だが、子供は大人になるものだろう。氷河は、そこまで馬鹿な男ではない」
氷河は瞬を無視しているわけではない。
むしろ、意識しすぎるほどに意識して、瞬にだけ“わざと意地悪”をしている。
氷河にとって瞬が特別な存在であることは、疑いようのない事実だった。
そして、彼は、瞬に冷たく接しても、いかなる益を得ることもなく、損をするばかり。
となれば、氷河はいずれ“大人”になって、その態度を改めることになるだろう――というのが、紫龍の考えのようだった。
氷河が 余程の馬鹿か、常軌を逸した ひねくれ者でない限り。

「うー……」
現在の氷河の態度を見ていると、氷河が馬鹿ではないとは言い切れないし、ひねくれ者ではないとも言い難い。
だが、氷河は“ただの馬鹿”か“ただのひねくれ者”にすぎず、“余程の馬鹿”や“常軌を逸した ひねくれ者”ではないだろう――。
そう思うことで、星矢は、今すぐ瞬への氷河の態度を責めるのはやめることにしたのである。
今は ただの馬鹿にすぎない氷河も、さほどの時をおかずに 賢明な“大人”になるだろうことを期待して。






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