明日の訪問の段取りをつけると言って、そそくさと沙織がラウンジを立ち去ったところを見ると、彼女は自分のスケジュールの確認もせずに、沢山家の未亡人に自宅訪問の約束をしたものらしかった。
沙織は最初から、何を置いても沢山家を訪ねるつもりでいたのだ。
もし、彼女の明日のスケジュールに米国大統領との会談の予定が入っていても、彼女はそれをキャンセルして沢山家に赴くに違いなかった。

授業参観をする暇も興味もないと言って 星矢と紫龍が席を外し、ラウンジには氷河と瞬の二人だけが残される。
二人きりになると、いかにも恐る恐るといったていで、瞬が氷河に尋ねてきた。
「あの……氷河……は、人前で泣かない方法を知ってるの?」
「そういうわけではない」
「え? でも、星矢が――」
「俺が知っているのは、心を隠し偽る方法だ」
「……?」

誤解を招かないために告げた氷河の言葉を、瞬は理解できなかったらしい。
瞬は、氷河の前で軽く首をかしげた。
――女神の決意を翻させることは不可能で、瞬の願うところははっきりしている。
事ここに至って、氷河は、もはや自分は開き直るしかないのだと、腹をくくることにしたのである。
深呼吸を一つして、心許なげな様子をしている瞬の方に向き直る。
そうして、氷河は、おもむろに彼に課された任務の遂行に取りかかった。

「ポーカーフェイスでいることが心を隠すことだとは限らない。人は、立腹を隠すために笑ったり、悲しみを隠すために わざと怒ってみたり、あるいは、軽蔑の気持ちを涙で隠そうとすることもあるだろう」
「それはそうかもしれないけど……」
「おまえは悲しい時に笑ったり、嬉しい時に悲しむ振りをしたことはないのか」
「え……?」
氷河の質問は、瞬の意表を衝くものだったらしい。
瞬は、
「ないと思う……」
という答えを導き出すまでに30秒弱の時間を費やした。

「幸せでいいな」
ほとんど反射的に――全く他意はなく――そう呟いた氷河の目を、瞬が不安げに見上げてくる。
氷河は慌てて、瞬のために微笑を作った。
「責めているわけじゃない。そうしていられるなら、それがいちばんいいことだ。それは自然体でいられるということで、楽だし――何より嘘つきにならずに済む」
だから、氷河は、本当は、悲しい時に泣かずにいる方法など、瞬に教えたくはなかったのである。
瞬のように 人の痛みに敏感な人間が泣くことを禁じられてしまったら、他人の痛みを溜め込みすぎた瞬の胸は、早晩 その重みに押し潰されてしまうような気がしたから。

「悲しい時に笑うのはわかる気がするけど……。それは周りの人に心配をかけたくないからでしょう? でも、嬉しい時に悲しむ振りっていうのは――そんなことをして何になるの」
「それで、人の同情を買うことができるだろう。悲しい時に笑うのも――たとえば、自分が悲しんでいる姿をさらすことで 敵を喜ばせたくないから笑う奴もいる。おまえが そういう作為をしたことがないというのなら、おまえは 人を利用することを考えたことがなくて、憎い相手もいないということ。幸せなことだ」
「人がそんなことのために自分の心を偽ることがあるの」
「そういう奴もいるということだ」
「そんなふうな計算や演技ができる人のことを『クール』っていうの?」
「かもしれない」
「でも、氷河はそうじゃないでしょう?」
「いろんな場合がある」
「……」

瞬が、『もちろん俺はそうじゃない』という答えを期待していたのは一目瞭然のことで、氷河もできることなら瞬の期待に応えてやりたかったのである。
だが、氷河は、それ以上に 瞬に嘘をつきたくないという気持ちの方が強かったので、瞬の期待に添った答えを瞬に返してやることはできなかった。
瞬が、仲間の返答に驚いたように、その目をみはる。

「そ……れで、な……泣かない方法もあるの? ぐ……具体的に――」
自分の戸惑いをあからさまにすることは 仲間に対して“失礼”だと、瞬は思ったのかもしれない。
自身の戸惑いを隠す・・ために、瞬は慌てて その質問を作ったようだった。
瞬らしく、本心を隠し切れず――瞬は少しく どもっていた。

「泣く原因によるな。それが自分の弱さのせいか、他に原因があるか。原因が自分の内にある弱さだというのなら、そんな自分を軽蔑し嘲笑えばいい。泣く原因が自分の外にあるのなら、自分を泣かせる相手や原因を憎み、腹を立てる。要するに、感情のすり替えをするんだ。一瞬で。時間をかけては駄目だ。時間をかけて行なう感情のすり替えは、ただの防衛機制で、子供にもできる稚拙な行為だ」
「咄嗟にそんなことをするなんて――」
「涙を涙で隠す手もある。いっそ盛大に泣いて、適当に別の原因を捏造するんだ。目にゴミが入ったなんて、詰まらない理由をこじつけるのは駄目だぞ。せめて、『ここで泣かないと冷血漢と思われるから、自分は演技で泣いているんだ』と本気で思い込めるくらいのことはしないと。自分でそう思い込めてしまったら、大抵の人間は敏感で馬鹿だから、それを空涙だと感じてくれる」
「そんな……む……難しすぎるよ……!」

氷河が例示する“心を隠し偽る方法”は、瞬には高度すぎる技だった。
“難しい”以前に、そうまでして心を偽ることに どんな益があり、本当にそんなことをする人がいるのかと疑わずにいられない。
瞬には、その技術を会得する以前に、人がそうまでして自分を偽るという行為自体が、そもそも理解の範疇を超えたものだった。
それは、氷河も承知していたらしい。
彼は、その顔に薄い微笑を浮かべて頷いた。

「そうだな。おまえは、泣かない路線でいった方が無難だろうな。もっと単純に――『自分が泣くことは、相手を殺すことだ』くらいの認識と覚悟を決めて、“敵”の前に立つ」
「そ……それで、顔が不自然に強張ったりしたら――」
「好きだから緊張しているんだと思い込め」
「好きだから?」
「嫌いだから、でもいいぞ。本気で思い込むことが肝心だ。おまえは、もともとの印象が優しいから、少し緊張しているくらいでちょうどいい。むしろ おまえは、気を抜いた時に演じるのを忘れてしまうことを心配した方がいいだろうな」
「うん……そうかも……」
「自分の本心を知られたら、その人の人生を狂わすことになると常に自分に言いきかせていれば、緊張感を保つことができる」
「うん……」

表情をコントロールするものは感情で、感情をコントロールするものは確固たる意思。
氷河が、壊滅的に涙腺の弱い仲間に 教示しようとしているのは、つまりそういうことのようだった。
だが、人の流す涙一つ、微笑一つに、そこまでの裏がある可能性を考えたことがなかった瞬には、氷河の言はあまりにも――“困難”というより“驚異”だった。
「氷河は……そんなことを考えて、心を隠しているの?」
「どうでもいい奴のために、そこまでして 本心を隠し偽るなんて面倒なことをするものか」
それは氷河にとっても決して容易な作業ではなく、“面倒な”ことではあるらしい。
そして、そこまでする価値のある人と信じるから、氷河は、その“面倒な”ことをしているらしい。
その覚悟がないならば、心を偽るなどということに、人は挑むべきではないらしい。
沢山家の子息に対して、自分はそこまでの覚悟ができているのだろうかと、瞬は怯えながら思ったのである。

「治療法が見付かれば完治する可能性のある病気なんだ。死ぬと決めてかかるのは間違っているぞ。同情しすぎるな」
氷河がそう言ってくれなかったら、瞬は最後の最後で沢山家訪問を断念してしまっていたかもしれなかった。






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