「騒がしいわね。いったい何事なの。静かにしてちょうだい。エントランスにまで聞き苦しい声が響いていたわよ。我が家の住人なら、それらしい品格を備えた振舞いをしてほしいわね。あんな声、人に聞かれたら、なんて思われるか――瞬……?」
ご機嫌斜めだった沙織が、瞬の涙を認めて、叱責の声を途切らせる。
改めて見渡すと、瞬の仲間たちまでが全員揃って珍妙な表情。
沙織は怪訝そうに眉根を寄せて、彼女の聖闘士たちに尋ねてきた。

「いったい、どうしたの」
「いや、今、氷河が瞬に――」
「あら、ついに氷河が瞬に告白したの。それで瞬は嬉し泣き? でも、静かにしてちょうだいね。品位がないわ」
「あ……の……」
瞬はさすがに、アテナまでが意地の悪い嘘を言って 彼女の聖闘士をいじめようとしている――とは思わなかったらしい。
とはいえ、沙織の言葉をすぐに信じてしまえるほど 瞬の傷心は軽微なものではなかったらしく――瞬は困惑したような目で、彼の女神と仲間たちを見詰めることになった。

一輝が、弟のその様子を見て、アテナこそが瞬と人類の唯一の救い主だということに気付く。
そうと気付くや即座に、一輝は、弟を救ってくれるよう、アテナへの懇願に及んだのだった。
「沙織さん! いや、アテナ! 瞬に言ってやってくれ。氷河の馬鹿が好きなのは、誰なのか。アテナの言葉なら、瞬も信じるに違いない」
「え……? あら、でも、私がそんなことを言うのはよくないでしょう。そういうことは、やはり 本人の口から……って、告白したんじゃなかったの? 私はてっきり――」
「その本人に、全く信用がないから、こんな騒ぎになってしまったんだ。いいから、氷河が好きな相手が誰なのかを、瞬に言ってやってくれ!」

『氷河の恋を瞬に信じさせてやってくれ』とアテナに頼んでいるのが、おそらく この地上に存在する人間の中で最も 氷河の恋を実らせたくないと思っている一輝なのだから、世の中は わからない。
知恵の女神であるアテナにも、一輝の複雑な兄弟愛を理解することは困難なことであるようだった。
だが、他ならぬ一輝がそう言うのなら――誰よりも弟の恋を快く思っていないはずの一輝が そう言うのなら――それは他人が伝えてしまってもいいことなのだろうと、彼女は判断したようだった。
僅かにキツネにつままれたような面持ちで、アテナは、一輝に『言ってやってくれ』と求められた言葉を瞬に告げたのである。

「氷河が好きなのは あなたよ。そんなの、誰でも知っていることだわ。知らないのは あなたくらいのものよ」
「え……」
特に兄と示し合わせた様子もなかったのに、アテナが兄とほぼ同じことを言う。
その言葉を聞いて、瞬は、その事実――他の誰もが知っていて、瞬だけが知らなかった事実――をやっと信じる気になったようだった。

「それ……本当ですか」
「瞬。あなた、私の言葉を疑うの?」
「い……いいえ。そんなことは絶対に! あの……でも……ほんとに……?」
仲間たちに 寄ってたかって傷付けられたせいで、暗い色を帯びていた瞬の瞳に、微かな光が射し始める。
その光は、あっという間に瞬の全身を包み、輝かせ、瞬は嬉しさに戸惑ったように、女神と仲間たちの前で もじもじし始めた。

「氷河の言うことは信じないくせに、沙織さんの言うことなら信じるのかよ?」
瞬のその豹変振りに、星矢は思い切り呆れた顔になったのである。
「それは まあ……好きだということと信じることは別物だからな」
そんな星矢に、紫龍は、人間の不滅の真理を提示して頷いた。
人は、好きだから その人を信じたいと思うことはあるだろうが、『信じたい』と『信じている』は明確に別のもの。
『好き』と『信じている』は、なおさら別のものなのだ。

氷河が自分を好きでいるという事実をついに信じるに至った弟があまりに幸せそうに輝き出したので――瞬の兄が複雑極まりない顔になる。
氷河の毒牙から最愛の弟を守るつもりでいたのに、結果として、氷河が弟に毒牙を突き立てる作業に力を貸してしまったのだから、瞬の兄の心境は当然 複雑怪奇なものだったろう。
瞬に自分の告白を信じてもらえなかった氷河も、その点では、瞬の兄と大同小異。
「あー……瞬」
氷河は、せめて自分の口でもう一度 その言葉を瞬に告げようとしたのである。
だが、氷河の声を聞くや、瞬は突然 真っ赤になって、氷河の前から後ずさる素振りを見せ始めたのだった。

「や……やだ。これまで僕、勘違いして、見当違いの馬鹿なことばっかり……」
『その“見当違いの馬鹿なこと”のせいで、俺がどれほど傷付いたか!』と言えるものなら、言ってしまいたかったのである。氷河は。
だが、そう言ってしまうことは、氷河にはできなかった。
元はといえば、瞬の誤解は 目的格のない告白をした男のせいで生じたもの。
瞬は、恋する仲間のために、仲間として彼がすべきことをしただけなのだ。

「それはおまえのせいじゃないだろう。おまえはただ、俺のために――」
「違うの!」
瞬を責めないために氷河が告げた言葉を、瞬が鋭い声で遮る。
その声の鋭さに驚き、目をみはった氷河の前で、瞬は もう一度『違うの』と小さく呟いた。
「そうじゃなくて……僕は卑怯だったの。自分の気持ちを抑えて、隠して、氷河の恋が実るように一生懸命頑張ったら、氷河がそんな僕を哀れんで、僕の方を振り向いてくれるかもしれないって、僕は思ってた。僕は多分、氷河のためじゃなく、自分のために一生懸命だったんだ。ほんとは、氷河が僕以外の人を好きだなんて 悲しくてたまらなかったのに、僕は、氷河の前で、氷河に我儘を言わない いい子でいたくて――卑怯だったんだ……」
「……」
清らかで善良な人間の考えることが、氷河には正直 よくわからなかったのである。

「だから、きっと、そんな卑劣なことを考えたから、ばちが当たって、氷河は僕以外の人を好きになったんだろうって、僕、思ったんだ。だから、今度こそ本当に氷河のために氷河の恋を応援しようって思ったのに、みんなが 氷河が僕を好きだなんて ありえないこと言って僕を責めるから、僕、苦しくて――僕は、今度こそ本当に氷河のために氷河の恋を応援しようって思っていたのに――」
瞬の思考回路が、氷河は本当に理解できなかった。

瞬の理屈でいけば、自分の気持ちに正直になって恋を実らせようとすることも罪、自分の心を押し殺して仲間の恋に協力することも罪。
瞬のことであるから、仲間の恋を知りながら、仲間のために何もしないでいるのも罪――ということになるのだろう。
恋は、どんな企みを巡らせて戦っても、どんな武器を用いて戦っても、そうすることが許される、地上で唯一の戦いだというのに。

氷河は、本当に、瞬の考え方が理解できなかった。
だからといって、氷河が瞬を嫌いになることはなかったが。
『好き』と『信じている』が別のことであるように、『好き』と『理解している』もまた、完全に別のことなのだ。
現実問題として、瞬がもし、白鳥座の聖闘士に好きな相手がいることを知りながら、その人を押しのけて『僕を見て』と言い出したなら、白鳥座の聖闘士は即座に瞬を嫌いになっていただろうと、氷河には確信できた。
そんなことを絶対にしない瞬だから――絶対にできない瞬だから――氷河は他の誰かではなく瞬を好きになったのだ。
だから、氷河は、瞬がそういう人間であることを受け入れることにしたのである。
『好き』と『信じている』は別のこと。
『好き』と『理解できる』も別のこと。
だが、『好き』と『その人を受け入れること』は同じことであるべきだろうと思うから。

瞬が そういう難しい人間であることを受け入れて、その上で、氷河は瞬に告げたのである。
「俺を幸せにできるのは、おまえだけだ。俺を幸せにしてくれ」
そういう考え方をする人間である瞬に 見当違いで馬鹿な誤解をさせないためには、告白より、指示・命令の方が適切だろうと考えて。
「あ……」
氷河に そう命じられた瞬が――その瞳にはまだ少し涙が残っていたが、ひどく嬉しそうな笑顔になる。
そんな弟の様子を認めた瞬の兄が、最愛の弟の背後で 引きつった笑顔で泣きそうになっていたが、氷河はそれは綺麗に無視した。

とにかく、氷河は 今日のこの日、貴重な教訓を得たのである。
『恋の告白をする時には、目的格をはっきり言うこと』
それは、もしかしたら、人生で最も重要な教訓かもしれなかった。






Fin.






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