それを歓喜の表情というべきか、苦痛に耐えている表情というべきか。 あるいは 泣いているようにも、悲しんでいるようにも見える瞬の顔。 その時の瞬の表情を確かめる行為が、氷河は好きだった。 やがて 細く かすれた悲鳴が瞬の喉の奥から洩れ、それが何かの合図ででもあったかのように、瞬の全身から力が抜けていく。 そうして、複雑を極めていた瞬の表情は、徐々に 満足げで安らかな印象を濃くしたものに変わっていくのだ。 すべてが終わってから やっと羞恥心を思い出したように瞼を伏せる瞬の様子を見せられると、氷河の中には すぐに新たな欲望の火種が生じてくるのが常だった。 それをなんとか意思の力で捻じ伏せて、氷河は瞬の横に仰向けに倒れ込んだのである。 「覚えなければ、忘れることもない……」 大きく上下していた瞬の胸が平生の動きに戻った頃、氷河の耳に瞬の小さな呟きが届けられた。 視線を巡らせると、瞬は身体を横にして、命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間にして恋人でもある男の顔を、覗き込むように見上げ、見詰めている。 つい先程まで、様々な色と輝きを重ね合わせてできる複雑な表情をたたえていた瞬が、今は ひたすら一途で切なげな印象だけでできた瞳をしていた。 「なんだ?」 「昼間、星矢が言ってたこと……。忘れることに罪悪感を感じたくなかったら、人は最初から何も覚えなければいい、何も学ばなければいい、何も経験しなければいいってことなのかな……って思ったの」 「――」 瞬は、その考えを否定してほしがっているのか、肯定してほしがっているのか――。 否定することしかできない瞬の言葉の前で、だが、氷河は、そうすることをためらわないわけにはいかなかったのである。 それが否定することしかできない考えだということは、瞬もわかっているだろう。 それでも あえて瞬はその言葉を口にしたのだ。 氷河は慎重に対応しなければならなかった。 「おまえは、俺と抱き合っている時に、星矢が言った あんな戯れ言のことを考えていたのか」 その事実(?)を不快に思ったからではなく、この場面を軽い冗談で済ませるべきか、重く真面目に受けとめ対処すべきかを探るために、氷河はわざと不機嫌な声を作って 瞬に尋ねた。 「まさか。氷河の相手をしている時に、そんなことを考えている余裕が 僕にあると思ってるの」 瞬から すぐに、真面目に拗ねているような答えが返ってくる。 それはそうだと得心すると共に、氷河は、今夜の瞬に 明るく軽く対峙することはしない方がいいようだと思うことになったのである。 「おまえは、忘れることに罪悪感を感じることがあるのか」 覚悟を決めて、瞬に再び尋ねる。 「そりゃあ……。僕のせいで傷付き倒れていった人たちのことを忘れたら、そんなのひどいって思うよ」 大体 予想通りの答えが返ってくる。 星矢が忘れたお使いのことなどに いつまでも固執する瞬ではないし、瞬自身は人に依頼されたことを忘れるようなことは決してしない人間なので、そんなことに罪悪感を抱く機会もない。 となれば、瞬の“忘れることに罪悪感を抱く”対象は、おのずと限られてくるのだ。 「で、おまえは そういう奴等のことを忘れてはならないと、いつも自分に言いきかせ、実際に忘れず、日々 罪悪感に浸って生きているというわけだ」 「氷河……」 揶揄するような口調になったのは、もちろん瞬を揶揄するためではない。 瞬の考えを否定するためでは 更になく――氷河はただ、瞬を楽にしてやりたいと思っただけだった。 「そう、気負うな。そんなことは忘れていいことだ」 「そんなはずないよ。それは絶対に忘れちゃいけないことだと思う」 「過去の悲劇に囚われ酔っていても、人は幸せにはなれない」 「そんなことない。僕は今 幸せだもの……」 思いがけない言葉を、瞬の唇が形作る。 それは嘘ではないと念を押すように、瞬は氷河の腕に頬を押し当ててきた。 「ならいいが」 まるで幸せそうでない瞬の声。 何かにすがらずにはいられないから すがってくるような瞬の仕草。 瞬の唇が次に生んだのは、案の定、自分自身を責める言葉だった。 「僕は幸せなの。自分が幸せでいるってことに気付くたび、僕は自分を なんて薄情で冷酷な人間なんだろうって思うよ。僕は たくさんの人から 幸せになる可能性を奪い取ってきた人間なのに……僕は幸せになっちゃいけない人間なのに……」 「瞬」 「なのに、氷河に抱きしめられていると、僕は、そんな人たちのことを すっかり忘れてしまうんだ。僕は 氷河しかいない世界の住人で、そこには幸福しかない。……ひどいよね、僕」 自分が幸せでいることに傷付いてしまうような人間は、はたして本当に幸せな人間といえるのだろうか。 氷河には そう思うことができなかった。 だが、それが完全に事実に反したことだとも思えない。 瞬は確かに幸福な人間で、そして同時に幸福ではない人間なのだろう。 それは、瞬だけでなく、瞬の恋人にとっても、なかなかに切ない事実だった。 「ひどいとは思わないな。もし その世界にひどい人間がいるのなら、それは忘れてしまうおまえではなく、おまえにそれらのことを忘れさせる俺の方だろう」 「そんなこと言わないで。氷河はひどくなんかないよ。氷河はいつだって優しいもの」 それは大いなる誤認だといおうとして、氷河はそうすることをやめた。 自分を優しい男だと思ったことはなかったが、もし 瞬の恋人までが“ひどい男”だということになってしまったら、二人のこの営みは、二人のひどい人間が為している、傲慢な歓喜の宴ということになってしまう。 瞬のために――氷河は、“優しい男”の汚名を着ることにしたのである。 氷河は、そして、瞬の細い剥き出しの肩を抱きしめた。 |