「僕、氷河に心配かけてる?」
瞬が突然そんなことを氷河に尋ねてきたのは、その夜のこと。
氷河が昨夜と同じように瞬を抱きしめ、瞬に多大な歓喜を味わわせてもらってからのことだった。
瞬はこれほど側にいるのに、自分は何を不安がっているのだろうかと、氷河が自嘲気味に思い始めた頃。
瞬が幸せな自分を恐れているように、自分もまた、幸せな今の自分を恐れているのではないかと考え始めていた時だった。

瞬が恐れているのは、忘れてはならないと瞬が思っている人たちのことを忘れて、瞬自身が幸せになってしまうこと。
瞬の恋人が恐れているのは、今 幸せな自分が幸せでなくなってしまうこと。
結局自分たちは、同じように明日を憂えていて、ただ思い描く未来の自分の姿が少し違うだけなのではないか――。
氷河は、そう思いかけていた。

「なんだ、藪から棒に」
「ん……。昼間、紫龍が――幸せになるために努力することは、生きている人間の義務だぞって、僕に言ってくれたの。僕自身のために その努力をすることができないなら、せめて氷河のために その努力を怠るなって」
「あの馬鹿、余計なことを」
それでは まるで、白鳥座の聖闘士が不安に耐え兼ねて 仲間に泣きついたようではないか。
紫龍の余計な親切に、氷河は少しく憤りを覚えることになったのである。
不快の念を隠さず、そういう顔をする。
そんな氷河を見て、瞬は困ったように眉根を寄せた。

「そんな顔しないで。紫龍は氷河のこと心配してくれてるの。そう言ってもらえて、僕、嬉しかったよ。僕の氷河を気に掛けてくれてるのが僕だけじゃないってわかって」
瞬のその言葉を聞いて、氷河の不機嫌の色が更に濃くなる。
瞬が怪訝そうに首をかしげると、氷河は忌々しげに 彼の不快の理由を瞬に告げた。
「奴は、俺より、おまえを嬉しがらせる術を心得ている」
本当に心配している相手は瞬であっても、瞬を心配しているとは言わず、瞬が好意を抱いている相手を心配してみせる。
それで瞬が喜ぶことを、紫龍は知っているのだ。
その事実が、氷河には不愉快だった。

「そんなことで機嫌を悪くしないで」
氷河の不機嫌な顔の理由を知らされて、瞬が苦笑する。
そうして、瞬は、氷河をなだめるように、彼の腕に両手の指をからめた。
氷河の視線を避けるように瞼を伏せ、しばし ためらってから、あまり抑揚のない声で話し始める。

「どんなに忘れまいって思っても、人は忘れる。わかってるの。それは意思の力ではどうにもならないことだ。逆に、忘れたいって思うことを忘れられないこともある。それも意思の力ではどうにもならない。忘れることも忘れないことも、ただの現象なんだよ。人間の心や意思は関係ない」
「瞬」
「わかってるんだ。忘れないと思うことも、忘れたいと思うことも無意味なんだ。あることを忘れるか忘れないか、そんなことは、それこそ自分が死ぬ時、死の間際にやっと、『僕はそれを忘れなかった』と確認できる事象にすぎない。ただの出来事にすぎない。僕がつらいと思うのは――」

言いかけて、瞬は一度 言葉を途切らせた。
それは、“自分が本当につらいと思うこと”を氷河に知られることで、仲間でもあり恋人でもある人の心配を より深いものにすることを恐れたからだった。
そして、途切らせた言葉の続きを 瞬が結局 口にしたのは、“自分が本当につらいと思うこと”を氷河に告げないことで、氷河の心配を より深いものにすることを恐れたから。
いずれにしても瞬は氷河にそのことを氷河に告げないわけにはいかなかったのだ。

「忘れちゃいけないって思いながら、自分が楽に生きていくために、僕は そのことを忘れたくなる――忘れてしまえたら僕はどんなに楽になれるだろうと夢想する。そんな自分がいやなんだ、僕はきっと」
「……。だが、忘れられないんだろう」
「うん……。忘れても、忘れなくても、どっちも つらいだけ」
その二つのいずれかを自分の意思で選ぶことができたなら、人はどれほど楽に生きて・・・いけるようになることか。
どちらを選んでも、それは自分が選んだ道なのだと開き直り、人は、いっそ すがすがしい気持ちで自らの人生を生きていくことができるに違いない。
選ぶことができず、望んでも叶わないことだから、瞬は そんな現実がつらいのだった。

氷河が そんな瞬を身体ごと抱き抱えるようにして、恋人の胸に引き寄せる。
瞬は大人しく為されるままでいた。
どんなに つらくても、この温もりが自分の側にあると感じていられる限り 幸福になれる自分を、瞬は知っていた。
この温もりは自分が生きていくために必要なものだと、瞬は思っていた。

「過去の過ちや、後悔したことは忘れていいんだ。その過ちや出来事から学んだことが、自分の血肉となってからなら、過去に経験したことなど すべて忘れてしまっても何の弊害もない。それが忘れるということでもあり、忘れないということでもある。だが、自分の犯した過ち自体を忘れまいと気負うことや、忘れたいと気負うことは無意味だ」
「忘れたいと思うことも、忘れまいと思うことも無意味だから――自分の意思ではどうにもならないことだから、人は無力感に支配されるのに……」
「それでも――考えすぎるな。気負いすぎるな、おまえはもっと楽な気持ちで、自然に生きていていいんだ。俺が許す。俺が許すことに、おまえの気持ちを安らげてやる力がなくても、俺は許す」
「氷河……」

そう告げる氷河の声は ごく静かなものではあったが、それは、それこそ気負いを隠し抑えた結果にできたもので、その声には 確かに力と熱がこもっていた。
『気負うな』と瞬に忠告している人が、気負いすぎるほどに気負っているのである。
沈んでいる恋人の心を浮き立たせるために。
その矛盾に、瞬は切なく微笑した。
「僕はいつも、僕と戦う人たちに『甘い』って非難されるけど、僕は、僕なんかより 氷河の方がずっと甘いと思うよ。氷河は僕に甘すぎるの……」
「そうでもないだろう。たとえ そうだとしても、俺は、おまえのためではなく、俺自身が幸福でいるために おまえを甘やかしているだけだ。俺は、おまえと違って、生きている人間の義務に忠実な男だからな」
「そんなふうに言ってくれるところが、氷河は甘いの。優しすぎるんだ。僕は氷河のために何もしてあげられないのに。こんなふうに すぐ落ち込んで、氷河に心配かけるばかりで」
「……」

“優しい男”の汚名を着ることには やぶさかではないが、汚名の内容にも限度というものがある。
事実と違いすぎる評価は、やがて瞬に失望をもたらすことになるだろう。
氷河はさりげなく、瞬の誤解に訂正を入れた。
「おまえは俺を買いかぶりすぎている。俺は、もっと いい加減で投げ遣りだ。俺は、本当は、おまえが何を忘れてもいいと思っているし、何を忘れなくてもいいと思っているんだ。おまえが、今 ここに俺がいることさえ忘れないでいてくれるなら。俺や星矢や紫龍や――ほとんど役に立たないが一輝も――、皆が今 おまえの側にいて、おまえを見ていることを忘れないでいてくれるなら」
「えっ」

氷河が口にした訂正文は、瞬には思いがけないものだった。
あまりに思いがけないものだったので、氷河は本気でそんなことを言っているのかと不安になり、彼の真意を確かめるために、その胸に身体を乗り上げるようにして、瞬は氷河の顔を覗き込んだのである。
あろうことか、氷河は至って真顔だった。
彼は本気でそんな心配をしているようだった。
だから、瞬は、ひどく慌ててしまったのである。

「それは忘れないよ。それは、僕が生きていくために必要なことだもの」
それは、改めて考えるまでもないこと、確かめるまでもないこと、当たりまえのこと。
瞬は急いで氷河の訂正文に訂正を入れた。
そうしてから、瞬は小さな笑い声を洩らしてしまったのである。
「いやだ、氷河。氷河ってば、もしかして、未来を奪った人たちのことを忘れまいとするあまり、僕が氷河たちのことを忘れるとでも思っていたの? そんなこと、心配していたの?」

その心配を馬鹿げたことだと断じる瞬の言葉と口調に、氷河が幾分 気まずげに、
「少し」
と答えてくる。
それはまさしく、天が崩れ落ちてくるのではないかと心配した杞の国の人と同じ振舞いだと、半ば呆れつつ、瞬は思ったのである。
「そんなことあるはずないでしょう」
「そんなことはあるはずがないのか」
「ないよ」

瞬は再度、氷河の懸念をきっぱり――というより、あっさり――否定した。
否定してしまってから、初めて瞬は そんな自分を奇妙だと思ったのである。
忘れることも忘れないことも意思の力ではどうにもできないという残酷な事実が事実だということを、自分は知っている。
その事実を忘れたわけではないのに、『忘れない』と断言してしまっている自分。
それは意思の力ではどうにもならないことだと、自分は今でも もちろん 知っている。
では、自分が氷河を『忘れない』ということは、意思で選んだことではないのだ。
不思議なことだと、瞬は思った。

「なら、いい。何を忘れるにしても、忘れないにしても、どれだけ忘れることや忘れられないことに苦しんでも、おまえが最後に必ず俺がいることを思い出し、俺のところに帰ってくれるなら」
氷河は本当に、彼の仲間にして恋人である人間が、その事実を忘れずにいてくれるのなら それでいいと考えているようだった。
瞬がその事実を忘れずにいるなら、他に何も心配することはないと。
瞬は、氷河のその信頼が――それは信頼だろう――嬉しかったのである。
氷河がそう信じていてくれるのなら、自分はきっと強い人間でいられるだろうとも思った。

実際、氷河の信頼を知らされた瞬の心の中には 明るさが――気負いのない明るさが――戻ってきていた。
心配性で優しすぎる恋人に、明るさを取り戻した目を向け、微笑む。
「ありがとう。僕も氷河の側にいるね。そのこと、氷河も忘れないで、つらいことや悲しいことがあったら、必ず僕に――氷河?」
それまで完全に心配の色を消しきれていない目で瞬を見詰め返していた氷河が、急に気の抜けた、きょとんとした顔になる。
それはまるで、講義内容を理解できるだろうかと案じながら出掛けていった大学の地学の教室で、仰々しい肩書きを持った偉い教授に、『信じられないかもしれませんが、世界は平らではないんですよ』と真剣な顔で告げられた学生か何かのようだった。

実際、氷河はそういう心境でいたのだろう。
「氷河、どうしたの?」
と尋ねた瞬に、彼は、
「あ、いや……。おまえが俺の側にいることは当たりまえのことだから、おまえが俺の側にいてくれることを、俺自身は特別に意識したことがなかった。忘れていた……かもしれない」
と答えてきたのだから。
「え?」
「俺がおまえの側にいることは、意識しすぎるほどに意識して、そのことを忘れないでいてほしいと望みすぎるほどに望んでいたのに……」
氷河は、自分を勝手な男だと思い、そして、反省めいた気持ちを抱いたらしい。
少しばかり気まずげで心苦しそうな表情を、彼は その顔に浮かべた。

「それって、僕が既に氷河の血肉の一部になってるってこと? なら、嬉しいけど」
自然に瞳と唇に笑みが浮かんでくる。
瞬がそう言うと、氷河は今度は その顔に嘆かわしげな表情を浮かべ、軽く左右に首を振ることをした。
「瞬。おまえは やはり甘すぎるぞ。こんな身勝手な思い込みと決めつけを『嬉しい』などと言って許すようでは」
氷河に何と言われようと、嬉しくて許さずにいられない。
これが『甘い』と非難されるようなことなのであれば、自分はその非難を甘んじて受けようと、氷河の胸に頬を押しつけながら、瞬は思った。






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