「そう疑っておりますのよ、聖域の者たちは。冥府の王が 私の停戦の申し出に同意したのは、何らかの企みがあるからなのではないか、あるいは冥界軍に 聖域と戦いを始めることができないような支障が生じているからなのではないかと。事実はどうなのです」 当のハーデスに はっきり尋ねてしまうアテナの大胆に、彼女の護衛についていた青銅聖闘士たちは、ぎくりと身体を強張らせ、顔を引きつらせた。 アテナの問いかけは、あまりに率直すぎるもの。 停戦協定の確認のため、また友好の証として、せっかくハーデスが、単身聖域を訪問してくれているのだ。 できれば、青銅聖闘士たちは、冥府の王が停戦協定に同意した真意を さりげなく探り出したかったし、実際 そうするつもりでいた。 こんなふうに あからさまにハーデスへの不審を表明されては、“さりげなく”敵の真意を探ることが難しくなる。 機嫌を損ねたハーデスに冥界に立ち帰られてしまっては、せっかくの好機を逸することにもなりかねないではないか――。 だが、青銅聖闘士たちの懸念に反して、アテナに率直な不審を投げつけられたハーデスは 機嫌を損ねた様子は見せなかった。 冥府の王が、その端正な貌に ゆるやかな笑みを浮かべ、何を考えているのか読み取りにくい漆黒の瞳に 戦いの女神の姿を映し、浅く頷く。 「ああ、そのことか。それはもちろん、今の状態で聖域と戦えば、余が 著しい苦戦を強いられることがわかっているからだ。せっかくの聖戦、数百年に一度の大興行、あっさり勝敗が決してしまったのでは、あなたも あなたの聖闘士たちも楽しめないだろうと考えてのこと。こたびの決定は、聖域に対する余の思い遣りと言っていい」 「著しい苦戦? 冥界の王であるあなたが? 死の世界を司る神であるあなたが? 冥界軍ではなく、 誰よりもハーデスの意図を疑い、その真意を探ろうとしていたのは、アテナの聖闘士たちより、やはり女神アテナ自身であったらしい。 聖闘士たちが気にもとめず聞き逃していた点に、彼女は鋭く切り込んでいった。 アテナ神殿の玉座の間。 正面奥の一段 高い場所にあるアテナの玉座は、今日は その向きを90度変えて置かれている。 アテナの玉座の向かいに ハーデスのための仮の玉座が用意され、二柱の神は互いに互いの姿を正面から見据えて 言葉を交わしていた。 一段低い広間には、二人の神の対談を見守るように青銅聖闘士たちが控えている。 ハーデスは、自らの力に よほど自信があるのか、あるいは、アテナの聖闘士たちの力を見くびっているのか、供の一人も従えていなかった。 「そう。余が」 ハーデスが 至極あっさりと自身の劣位を認める。 そして、アテナは解せぬ顔になった。 これまでの聖戦において、アテナと彼女の聖闘士たちはハーデスの冥闘士をすべて倒してきた。 神であるアテナとハーデスの勝敗はともかく、彼等に従う闘士同士の戦いでは 常にアテナが勝利を収めてきた。 それゆえ人類は滅びずに済んできたのだが、アテナの聖闘士たちは 神であるハーデスを消滅せしめることはできなかった。 ハーデス自身は誰にも敗北を味わわされたことはない。 ただ彼の冥闘士たちがアテナの聖闘士たちより弱かっただけ。 ハーデスはそういう認識でいるのだろうと、アテナとアテナの聖闘士たちは思っていた。 誇り高き冥府の王が 自らの不利や敗北を認めるなどということは、アテナにもアテナの聖闘士たちにも意想外のことだったのである。 しかし、ハーデスは、その意想外のことをした。 「こたびの戦いが、これまでの聖戦とは違うことに、あなたも気付いているだろう。いつもなら、余が この身を動かすことはない」 アテナの聖闘士たちは“これまでの聖戦”を知らない。 そのため、彼等は、ハーデスの言葉の意味を理解することができなかった。 “この身”を動かさず、彼はこれまでの聖戦を どんなふうに戦ってきたというのか。 まさか 神と神の会話に横から口を挟むわけにもいかず、アテナの聖闘士たちは 一様に その眉をひそめることになったのである――そうすることしかできなかった。 「ええ。あなたがあなたの大切な お身体を使ってここにいることに、私は 少なからず驚いていますわ」 聖闘士たちには理解できないハーデスの言葉に、アテナが頷く。 そうしてから彼女は、その口調を僅かに厳しいものに変化させた。 「ですが、その『こたびの戦い』という お言葉は聞き捨てなりません。私は、『こたびの戦い』など起こすつもりはありません。ご訂正いただきたいですわ。あなたは、私の提案した停戦に同意されたのですから」 「では、『こたびの余の覚醒が』と言い直そう」 ハーデスが、アテナの要求に 数千年の間、幾度失敗しても 人類粛清を諦めなかった頑迷な神。 それが、アテナの聖闘士たちが抱いていた冥府の王のイメージだったのだが、今 彼等の目の前にいるハーデスの言動は、そのイメージとは はなはだしくかけ離れたものだった。 神と神のやりとりを見守りつつ、アテナの聖闘士たちは その胸中に困惑の念を生み始めていた。 「そう。余は、詰まらぬ戦いで 余の身体を傷付けるようなことはしたくない。それゆえ、これまでの聖戦では必ず、余の魂を宿らせる器を用意し、その者の身体を用いて戦ってきた。不測の事態が起こっても、傷付くのは その者の身体。余が余の身体を動かすのは、地上から醜悪な人間たちが一掃され、余が冥界のみならず地上をも統べる王として二界に君臨する時のみと決めていた。だが、こたびは、なにしろ、本来であれば余の魂の器として冥界軍の先頭に立ち戦うはずの人間が、よりにもよって あなたの軍にいるのでね」 「誰です」 驚いた様子もなく、アテナは間髪を入れずにハーデスに問うた。 ハーデスは、アテナの性急さとは対照的に、その所作を ますます ゆるやかなものにしていく。 ゆったりと落ち着いた声で、彼は、アテナの慌しい質問に答えを返してきた。 「察しているくせに、よく そのように白々しい顔で問えるものだ。余の魂の器となるべき人間は、今この時 地上で最も清らかな魂を持つ者。美しい面差しと肢体を持ち、優しく汚れない心を持ち、この人間界で醜悪を退け、人間界の醜悪に染まることなく、純白の百合の姿を 頑なに保ち続ける稀有な人間――」 アテナの聖闘士たちがぎょっとして、仲間の一人を振り返る。 改めて その稀有な人間の姿を確かめる必要はないと考えているのか、アテナは 彼女の聖闘士に一顧だにくれなかった。 ハーデスの漆黒の瞳を凝視したまま、 「瞬ですね」 と言う。 その場にいる者たちの中で アテナの その言葉に最も驚いたのは、彼女に自分の名を出された瞬自身だったろう。 瞬は、自分を そんな大層な人間だと思ったことはなく――それどころか、自分を誰よりも深く重い罪を負った存在だと考えていたのだから。 「そう、あなたの聖闘士」 アテナの言葉を、ハーデスは否定しなかった。 静かに頷き、感情も思考もどこか深いところに沈め隠しているような眼差しを、彼の肯定にぽかんとしている瞬に向けてくる。 「余は、余の愛しい器を苦しませたくなかったのだ。ここで余が、やはり人類は粛清されるべきものと言い張り、瞬を我がものにしようとすれば、瞬は 余とあなたの間で苦悩することになるだろう」 口調は至って穏やか。告げる言葉も、彼の思い遣りを示すものと聞けないことはない。 だが、穏やかで優しいハーデスの言葉や眼差しは、あくまで 尋常の人間には至ることのできない高みから下方に向かって注がれるものだった。 彼は、瞬を 物扱いしている。 ハーデスの その穏やかな傲慢に 最初に我慢できなくなったのは天馬座の聖闘士だった。 「瞬が苦悩なんかするかよ! 瞬はアテナの聖闘士だ。そして、地上に生きる人間たちを滅ぼそうとする者はアテナの聖闘士の敵だ。瞬は迷わず、アテナの聖闘士として てめーと戦うさ!」 「星矢」 アテナが、彼女の聖闘士の名を口にして、彼の非礼を たしなめる。 アテナが たしなめたものが、自分の乱暴な言葉使いと態度だけだということがわかるので――発言の内容自体を責めているわけではないことが わかるので――星矢は不本意ではあったが、一応それ以上の暴言を慎んだ。 一応、慎もうとしたのである。 星矢のその殊勝な決意を台無しにしてくれたのは、星矢に非礼を働かれ、星矢に非礼を働かせた冥府の王その人だった。 「余は、瞬を余の自由にできる。その心も身体も。余には その力がある」 星矢を挑発するように、ハーデスは そう言ったのだ。 「なにっ !? 」 売られた喧嘩は買うのが礼儀。 星矢は、礼儀正しく、冥府の王に怒声を支払った。 「はったりを言うな! そんなことが本当にできるってのなら、たった今 俺を黙らせてみろよ! できないだろ!」 挑発には挑発。 星矢は、冥府の王に対して、喧嘩の作法を完璧に守ってみせたのだが、卑怯にも ハーデスは星矢の挑発に乗ってこなかった。 「余と瞬は運命で結ばれている。そなたのように、ただ吠えるしか能のない下品な輩を自由に操れても自慢にはならぬ。余は、そのような無益なことはしない。だが、瞬は、運命で余に結びつけられた特別な存在なのだ。瞬は余のもの。余の意に従う」 変わらぬ穏やかな口調で、そう言っただけで。 数千年の間 決着のつかない戦いをアテナと続けてきた神の、自信にあふれた その言葉。 運命で結びつけられた特別な存在だからこそ、瞬には、ハーデスのその言葉が はったりなどではないことを感じとれたのかもしれない。 全身にまとわりついてくる彼の視線に怯えて、瞬は僅かに後ずさった。 アテナの聖闘士がアテナの敵対者に恐れをなすことなどしてはならないと叱咤するように、氷河が瞬の腕を掴む。 氷河に止められてハーデスの前から逃げ出すことができなくなった瞬に、ハーデスは得体の知れない微笑を投げかけてきた。 「ああ、瞬、そのように不安そうな顔をするものではない。余は、 「あ……」 「もっとも、余は気紛れな神だがな」 「脅すのかよ!」 ハーデスには操ることのできない天馬座の聖闘士が、瞬の代わりに再度ハーデスに食ってかかる。 言葉だけではなく拳まで繰り出しかねない剣幕の星矢の腕を押さえるのは、紫龍の仕事だった。 退くことを止められた瞬と、進むことを止められた星矢。 瞬を引き止めた氷河と、星矢を押しとどめた紫龍。 そんな青銅聖闘士たちの様子を楽しむように、ハーデスは その口許を微かに歪めた。 「脅すくらいのことはさせておくことだ。瞬 可愛さに目が眩み、数千年の宿願を忘れたのかと、余は冥界の者たちに責められている。いうなれば敵地である聖域に、余が こうして一人でやってきたのも、冥界のうるさい者たちに うんざりしていたからだ」 「ご冗談を。冥界に、あなたを責められるような者がいるわけがありませんでしょう。私の聖闘士たちをからかうのは おやめください。私の聖闘士たちは皆 とても素直なので、あなたの冗談を真に受けてしまいますわ」 ハーデスと星矢の間に、アテナが笑顔で仲介に入る。 ハーデスは、彼と同族の神であるアテナの前で嘆かわしげに首を横に振った。 「以前なら考えられぬことだが、こたびの戦いは――いや、こたびの余の覚醒は すべてが異例尽くめなのでな。冥界の者たちには、今の余の言動が、聖域と聖域の聖闘士たちを恐れて 尻込みしているように見えるのであろう」 「まあ、まさかそんな」 美しく にこやかな笑顔の奥で、『そんな言葉が信じられるか』と、言葉にはせずにアテナが言っている。 そんなアテナに ハーデスもまた微笑を返し――二柱の神の笑顔の応酬に、アテナの聖闘士たちは、拳を放って命がけの戦いを戦っている方が よほど気楽でいられる――と思わずにはいられないような激しい緊張を強いられていた。 海千山千の神々の、刃物より鋭い笑顔の立ち合い。 ハーデスが、その笑顔をアテナではなく瞬に向けてきた時、アテナの聖闘士たちは極度の緊張から解放され、むしろ ほっと安堵の息を洩らすことになったのである。 「瞬。人類粛清の重責から逃れさせてやった礼に、余に聖域を案内してくれぬか」 ハーデスが アテナではなく瞬に向ける微笑は、ただ不愉快なだけ――アテナに対するそれのような異常な緊迫感を伴わず、ひたすら不愉快なだけだった。 さすがは神というべきか、その“ただの不愉快”が、他に比するものを思いつけないほど強烈な不愉快であることもまた、紛う方なき事実ではあったのだが。 「敵になるかもしれない奴に、手の内を見せるようなことができるかよ!」 「聖域には、秘密の武器庫も 破壊されて困るような制御室もない。聖域が余に隠さなければならない秘密は、そなたたち聖闘士の能力くらいのものであろう。余はただ、余の可愛い瞬が日々を過ごしている場所を見てみたいだけだ。余は数千年の長きに渡って抱き続けてきた宿望を、一時的にとはいえ、愛しい瞬のために断念したのだぞ。この程度の ささやかな望みは叶えられて当然であろう」 『瞬』の前に、いちいち『可愛い』や『愛しい』をつけることが“不愉快”。 その形容詞が いかにも定型で、彼が本当に瞬を 可愛いもの、愛しいものと思っているように感じられないことが“不愉快”。 もし本当に彼が瞬を『可愛い』『愛しい』と思っているのなら、それもまた“不愉快”。 星矢にとってハーデスは、“不愉快”の塊り、“不愉快”の権化といっていい存在だった。 だが瞬は、さすがに星矢ほど単純にハーデスを厭うてばかりもいられなかったのである。 『数千年の長きに渡って抱き続けてきた宿望を、一時的に断念すること』を、やめられてしまっては困るから。 ハーデスを怒らせるわけにはいかない。 かといってハーデスに 積極的に近付いていきたいかと問われれば、その答えは どうしても『 NO 』になる。 結局、瞬は、アテナの指示を仰ぐことにした。 「アテナのお許しさえいただければ、聖域を案内することくらいは――」 「お願いできて? 瞬」 気紛れな神が決めた一時的な停戦。 その停戦の約束が守られるだけで、人類の寿命は確実に数百年間 延びる。 それがアテナの考えのようだった。 アテナがそう考えているというのなら、瞬も否やは言えない。 瞬は、小さく震えるようにアテナに頷いた。 「……はい。あの、では こちらへ――」 瞬が、アテナ神殿に幾つかある出入り口の一つを、手で指し示す。 “ささやかな望み”が叶えられることに満足したのか、ハーデスは、その顔に なぜか冷ややかな印象になる にこやかな微笑を浮かべて 掛けていた椅子から立ち上がり、ゆっくりと瞬のいる方に歩み寄ってきた。 漆黒の髪と漆黒の瞳。 身にまとっている長衣も黒。 禍々しく不吉にも見える冥府の王が、だが、驚くほど美しい男であることもまた 確かな事実。 彼の端正な佇まいは、『美しいものは光に似ている』という瞬の考えを あっさりと否定するものだった。 そのために差しのべたつもりはなかった瞬の手に、ハーデスが その手を重ねてくる。 冥府の王の手を振り払うこともならず――瞬は、ハーデスの冷たい手に 熱と震えを奪われながら、アテナ神殿を出ることになったのだった。 |