修行時代に氷河が暮らしていた家の中に入ると――家といっても、それは広い雪原に ぽつんと建つ、頑丈なログハウス程度のものなのだが――、その窓から見えるものは いよいよ白一色の光景だけになった。
この“家”に戻ってきた時の習慣で、何はさておいても暖炉に火を起こす。
ここでは、それが荷物を解くことより――大した荷物ではなかったが――優先させなければならない大事な仕事だった。
一般人に奇異の目を向けられることを避けるためだけに しぶしぶ身に着けたコートを脱ぎもせず、その仕事に取り組み始めた氷河に、瞬が、
「そんなに慌てなくても、寒いなら 僕が僕の小宇宙で温めてあげるのに」
と告げてくる。
氷河は、瞬の提案を丁重に断った。

「それも悪くはないが、おまえの小宇宙に包まれていると、俺は気持ちよすぎて、すぐに眠ってしまうんだ」
「そうだったの?」
氷河の言を冗談だと思っている口調で、瞬が氷河に問い返してくる。
が、実はそれは冗談ではなかったのである。
瞬は決して自分に攻撃を仕掛けてこないという確信があってのことなのだろうと思うが、瞬が意識せずに微弱な小宇宙を生んでいる時、それは氷河の神経を弛緩させ、氷河を眠りの中に誘い入れてしまうことが多かった。
「知らなかったのか? 俺がおまえの横で うたた寝していることが多いのは、そのせいだぞ」
「そ……そうだったんだ……。僕、てっきり――氷河は夜の睡眠が足りていないんだと思ってた」
「聖闘士の体力を馬鹿にするな。……まあ、どっちにしても、おまえが気持ちよすぎるせいだから、同じことではあるが」
「あ……」

瞬が、昨夜 処女を失ったばかりの新妻のように、氷河の前で頬を染める。
その様子が、全く演技ではなく、完全に自然な反応であることに 氷河は感嘆したのだが、瞬は別に氷河の気を引き、氷河を感動させるために新妻ごっこをしたのではなかったらしい。
「聖域やアテナに敵対して 僕たちに拳を向けてくる人たちも、氷河くらい呑気な大物で、僕の小宇宙の中でぐっすり眠ってくれたらいいのに」
やるせない目をして、瞬はそう言い、そのまま視線を窓の外に転じた。
だが、そこにあるものも、瞬を恐がらせる白い世界――。

「夜には、この白いだけの光景はどうなるの?」
「月が明るければ、夜とは思えないくらい明るい銀色の世界になる」
「月が出てなかったら?」
「墨を流したような漆黒の世界だ」
「……どっちが恐いんだろう。僕のどんな小さな罪も浮かび上がらせてしまう白一色の世界と、犯した罪ごと闇に沈めてしまう黒一色の世界と」
「おまえは罪など――」
『犯していない』と、氷河は言おうとした。
『少なくとも、俺が罪だと思うような罪は犯していない』と。
もちろん、それは言っても詮無いことである。
瞬は、瞬が“罪”だと思う罪を犯したのだ。
氷河がそれを『地上の安寧と人類の存続のための善行だった』と言ったところで、瞬の罪悪感が消えることはない。

「聖闘士が罪を犯してないなんてことは ありえないよ。氷河は僕だけに対してじゃなく、みんなに対しても甘すぎ」
「甘いのが好きなんだろう? だから、おまえは俺を受け入れてくれたんだ」
暖炉にくべた薪が、音を立ててオレンジ色の炎と戯れ始める。
石炭に火が移れば、これから3、4時間は、瞬の小宇宙に頼る必要は生じない。
それを確かめると、氷河は、窓の脇に立って“恐い”世界を見詰めている瞬を 背中から抱きしめた。
首筋に唇を押しつけ、瞬のコートのボタンを外しにかかる。
瞬は、どう考えても コートを脱がせるだけでは済ませない気配を漂わせている氷河の右の手に、その左手の指で触れてきた。
氷河の右手の作業を止めるためではなく、からかうために。
「氷河、家に着くなり、これは さすがにちょっと……」
困った振りをして告げる言葉も、氷河の反論を期待してのこと。
氷河は、もちろん瞬の期待に応えてやった。
「見るべきものはないと言ったろう。すべきこともないんだ。こんな恐い世界では、人は愛し合うことしかできない」
「愛し合うことしかできないところで、氷河は修行時代に誰と愛し合ってたの」
瞬が 笑いながら氷河に向き直ったのは、おそらく氷河の詭弁を論破するためだったろう。
氷河は臆することなく、瞬の挑戦を受けて立つ姿勢を示した。

「そうだな。薪割りをして薪と戯れ、屋根に積もった雪を下ろすために雪かき用シャベルを抱きしめ、ソリや家を修繕するために大工道具と愛を語っていたな」
「素敵」
「何が素敵なもんか。昼間はその調子で、夜になるとカミュは俺に聖書の朗読と暗記を命じたんだ。ふざけてるだろう。女神アテナの聖闘士になるための修行をしている子供に、毎日聖書を読ませるなんて」
「人類最大のベスセラーだもの。カミュは氷河に一般常識を身につけさせようとしていたんじゃないの?」
「いや。あれはどう考えても、カミュが児童文学の類を理解できていなかったせいだ。俺は、くまのプーさんが読みたかったのに」
「くまのプーさんの名前って、白鳥の名前からとったものなんだよ。知ってた? ロンドン動物園にいた白鳥の名前」
「それは知らなかった。ベッド、狭いし硬いぞ」
「平気」

暖炉のある居間 兼 食堂と寝室の間のドアを開け放したまま、二人はベッドに倒れ込んだ。
“プーさん”を語り合いながら情交に及ぼうとしている自分たちがおかしかったのか、瞬はずっと口許を ほころばせていた。
その笑みを消さないまま、瞬が、自分の上に のしかかってくる男の顔を覗き込む。
「きっと ここは、綺麗な人には恐くも何ともない場所なんだね。氷河は、この綺麗な場所で、ここを恐いと感じることもなく、質実で健やかな日々を過ごしてた。だから、氷河は こんなに綺麗なのかな」
羨むように白鳥座の聖闘士の瞳を見詰め、そう告げる瞬に、氷河は少々 きまりの悪さを覚えることになったのである。
なにしろ、ここで暮らしていた頃の氷河の口癖は、『なんで俺が こんなことをしなきゃならないんだ!』だったのだから。
薪割りをする時にも、雪かきをする時にも、聖書を読まされる時にも、まず その言葉を吐き出してから、氷河は命じられた作業にとりかかっていた。

だが、せっかく瞬が良い方に誤解してくれているものを、正直に訂正する気にはなれない。
氷河はあえて瞬の誤解に言及することなく、笑いながら瞬に頷いた。
「そうだな。だから俺は綺麗なものが好きなんだ。おまえの目とか唇とか。本当におまえは信じられないほど、どこもかしこも綺麗だ」
「僕は……」
僅かに躊躇の色を覗かせて瞬が何ごとかを言おうとする。
それが、聞いても楽しめない謙虚謙抑の言葉――むしろ卑下に近い言葉だろうことを察し、氷河はキスで瞬の声を遮った。






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