城戸邸の庭は、むせるほどの光であふれていた。
「あの人は――ハーデスのせいで すべてを失ったんだね。ハーデスさえ復活しなければ、あの人は ご両親と弟さんと、幸せな一生を過ごすことができていたはずだったのに――」
失われずに済んだ地上の光。
その光が明るく暖かく地上に満ちあふれていればいるほど、瞬の心は逆に重く沈んでいくらしい。
結局 自分は あの不幸な兄弟のために何をしてやることもできなかった――と、瞬は思っているのだろう。
自分は ただ愛され、守られるだけだったと。

「どんな人間の一生にも、試練は訪れるさ」
あの兄弟が冥界と共に消え 自分だけが生き残ったことを、自分の罪と考え、悲しそうな目をしている瞬に、氷河は低い声で そう告げた。
『おまえのせいじゃない』と慰撫の言葉を告げたところで、その言葉を受け入れることのできる瞬ではない。
氷河には、瞬の心を慰めるためのどんな言葉も思いつくことができなかった。
氷河にしてみれば、いつもいつも なぜ瞬だけがこんなふうに傷付くのかと、それこそ運命を呪いたい気分でいたのだが。

そして、氷河は、瞬を守り支える権利を、今こそ どうしても手に入れたいと思った。
アテナの聖闘士である瞬を守り支える権利ではなく、優しすぎ 人の痛みに敏感すぎるせいで 自分こそが最も深く傷付いてしまう瞬という一人の人間を守り支える権利を。
そのために、氷河は、これまでずっと 伝え損ねていた言葉を瞬に告げようとしたのである。
他人の好意をむげにできない瞬のこと、へたに思いを伝えて困らせるようなことになったらと、それを案じて これまで伝えずにいた言葉。
だが、あの黒衣の男は、瞬に『君に愛されているキグナスに、君を裏切らせようとした』と言っていた。
そして、星矢や紫龍ではなく、白鳥座の聖闘士を選んで罠を仕掛けた。
白鳥座の聖闘士に『好きだ』と告げられても、瞬は困らない――かもしれない。
むしろ喜んでくれる――かもしれないという希望が、今の氷河にはあったのである。
――のだが。

「瞬、俺は おまえが――」
「おお、キグナス」
だというのに、氷河の一世一代の恋の告白を邪魔する男が、なぜか突然 その場に湧いて出てきたのである。
それは あろうことか、『瞬は白鳥座の聖闘士に好きだと告げられても困らないのかもしれない』という希望を 氷河に与えてくれた、黒衣の男 その人だった。
「アテナの聖闘士は 光速の拳を見切り、打つこともできるそうだな。ライバルがいなくなった途端、すかさず瞬に迫るとは、さすがはアテナの聖闘士、実に迅速だ」
感心したように そう言って氷河の告白を邪魔してくれたパンドラは、相変わらずの黒衣だったが、今日は あの時代がかった長外衣ヒマティオンではなく、なんと黒の上下を着込んでいた。
肩に流れるほどあった髪も切り、一見したところではイタリアンマフィアの若頭といった風情である。

「貴様、ジュデッカで死んだのでは――」
つい 生きていることを責める口調になってしまったのは、今の立場の氷河としては 致し方のないことだったろう。
それが誰であれ、死んでいるよりは生きている方が いいに決まっている。
何といっても 人は、死ぬことは いつでもできるが、生きていることは自らの意思だけでは いかんともし難いものなのだから。
だが、よりにもよって このタイミングで生き返ってくることはないではないか。
せめて あと3分待ってほしかった――というのが、氷河の偽らざる気持ちだった。

「君には残念な仕儀になったかな? 死ぬ必要はないと言って、アテナが私を地上に運んでくれたのだ。ジュデッカと冥界が崩れ落ちようとしていた あの時に。君たちのアテナは実に偉大な神だ。優れたマルチタスク、その上、寛容で優しい」
「あ……」
瞬の目には 優しく穏やかなものに見えているのだろうパンドラの微笑が、氷河の目には 嫌らしい北叟笑みに見える。
パンドラの笑顔に 瞳を輝かせた瞬は、だが すぐに気遣わしげな色で瞳を曇らせた。

「あの……弟さん――は?」
パンドラの幸福がどこにあるのかを知っている瞬には、何よりも それが気掛かりだったのだろう。
命だけがあっても――人は『自分は幸福になれる』という希望なしには 本当に生きていくことはできないのだから。
パンドラは、瞬に問われると、今度は氷河にも他意なく感じられる微笑を その目許に刻んだ。
「あの子は、私の中にいる。一つになって死のうと――あの時、私は弟に、私の中においでと言ったんだ。そうして一つになって――あの時、私は、あの子がハーデスを憎んでいないどころか、歯牙にもかけていなかったことを知った。あの子の中は、自分が私の運命を狂わせてしまったという負い目と、そして、君への憧れの思いでいっぱいだった」
「え……」
「健やかで美しい肢体、清らかで優しい心――。あの子は、君を羨み、憧れていたから、君の心を消し去ることなど思いもよらなかったのだろう。今は私の中にいて、私と一緒に君に恋をしている。弟は消えてはいない。私の中で生きている」

実にさりげなく、腹が立つほど自然に 氷河の告白を横取りしてのけてから、パンドラは少し 切なげに その目を細めた。
「私は、もしかしたら 私の弟は消えていないと思いたいだけなのかもしれないな」
独り言のように小さなパンドラの呟きを聞いた瞬が、弟を失った男より悲しい目になる。
瞬を悲しませることは本意ではなかったらしく、パンドラはすぐに再び その顔に微笑を浮かびあがらせた。
またしても、氷河には北叟笑みにしか見えない微笑を。

「いずれにしても、私にはもう君しかいない。これまで そうしてきたように、私は君を守り続けたい。特に、キグナスの毒牙から」
「毒牙とは何だ、毒牙とは! ハーデスの手先だった男が、言うに事欠いて、俺から瞬を守るだとっ」
白鳥座の聖闘士の人生の方向性を決める重要な恋の告白を邪魔し、割り込み、横取りするだけでは飽き足らず、行きがけの駄賃とばかりにライバルを貶め、誹謗中傷するとは。
氷河はパンドラのやり口に激怒したのだが、パンドラは いたってクールに氷河の怒声を受け流した――もとい、受けとめ、投げ返してきた。

「今の発言を訂正してくれ。私はハーデスの手先だったことは一度もない。私には、君が瞬に向けている邪まで激しい欲望が 手に取るようにわかるが」
クールなパンドラの言葉に、瞬が目をみはる。
氷河は慌ててパンドラの告発を否定した。
「う……嘘だ! こいつは策士だ。素知らぬ顔で人を陥れる陰謀を巡らすことのできる男だ。瞬、騙されるな! 俺がそんな浅ましいことを考えているはずがないだろう!」
「浅ましいこと……って……?」
「……!」

「語るに落ちたな、キグナス」
パンドラの巧みな口車に乗せられて、余計なことを正直に(?)口走ってしまった自分を殴りつけたい。
勝ち誇ったように笑うパンドラの前で、氷河は ぎりぎりと音がするほど強く歯噛みをした。
瞬が自分をどういう目で見ているのかを確かめることが恐くて、氷河は 今ばかりは視線を瞬に向けることができなかった。
だから氷河は気付かなかったのである。
氷河が“浅ましいこと”を考えていると知らされた瞬が、その目許を ほのかに朱の色に染めたことに。

目ざとく それを認めたパンドラは、だが、その事実を氷河に教えてやるほど親切な男ではなかった。
代わりに、彼は、普段 接し慣れた 邪まで浅ましい氷河のそれとは違う怪しい気配に気付いて 庭に出てきたらしい瞬の仲間たち――の中の一人――に、共同戦線の締結を申し出た。
「復活は、君ばかりの十八番ではなかったようだ。フェニックス。共に キグナスの毒牙から 瞬を守っていこうではないか」
一度ならず二度までも 瞬とその兄の離反を画策したと告白した男を、そう簡単に信じていいものか。
一輝は、パンドラに あからさまに不信の目を向けた。

「貴様が氷河と同じように 瞬に対してよからぬことを考えていないと、誰が保証してくれる」
鳳凰座の聖闘士の不信などどこ吹く風と言わんばかりに涼しげな顔で、パンドラは瞬の兄にゆっくりと頷いた。
そして彼は、実に堂々と、かつ実に白々しく言い募ったのである。
「瞬の兄である君の心が。私は兄である者として、瞬が ただ愛しいのだ。君と同じように、心から瞬が愛しくてならない」
「……」

一輝は決してパンドラの言葉を 言葉通りに受けとめ、彼を信じたわけではなかっただろう。
ただ彼は、パンドラ同様 気付いていたのだ。
氷河の“浅ましい”思いを知らされても 嫌悪の表情を見せず、それどころか 恥ずかしそうに頬を上気させた弟の様子に。

「まあ、そういうことになっても、氷河の馬鹿よりは ましかもしれんな」
仲間甲斐のないことを、瞬の兄が呟く。
それで氷河は、気付き、知り、理解したのである。
数千年の昔、神話の時代から続いてきた、冥府の王ハーデスと人類の守護神アテナの戦い。
光あふれる世界と そこに生きる人間たちの運命をかけた聖なる戦い。
だが、アテナの聖闘士でなくても、ハーデスの冥闘士でなくても――人は誰でも、そして、いつの時代にも、自らの生死と幸福を賭けた聖なる戦いを戦い続けてきたのだということを。
氷河の真の聖戦は、今――たった今、始まったばかりだった。






Fin.






【back】