テーブルの上にあった双六盤は消えていた。 城戸邸ラウンジの壁に掛けられている英国風のアンティーク掛け時計の針が示している時刻は3時45分。 窓の外には、風のない真冬の静かな庭。 空は青く、木々は 冷たい冬の空気の中に毅然として立っている。 城戸邸ラウンジは静寂に包まれていた。 まるで 今までここで何が起こっていたのかを、誰もが忘れてしまったかのように。 意識は明瞭なのに、頭のどこかに靄がかかっている。 アテナの聖闘士たちは、その靄を振り払うために、仲間たちの顔を見た。 星矢は、紫龍、氷河、瞬を。 紫龍は、星矢、氷河、瞬を。 氷河は、星矢、紫龍、瞬を。 瞬は、星矢、紫龍、そして、氷河を。 最後に氷河と瞬の視線が会った時、瞬の頬は一瞬で深紅に染まった。 「や……やだっ!」 瞬が小さな悲鳴をあげ、今は何も置かれていないテーブルに すがるように手をついて、掛けていたソファから立ち上がる。 そのまま よろよろと、だが一般人よりは余程素早く、瞬はその場から逃げ出そうとした。 残念ながら、二人の記憶から逃げてほしくないと願う氷河の手によって しっかりと その腕を掴まれてしまった瞬は、そこから逃げ出すことはできなかったのであるが。 「逃げるな! 逃げないでくれ!」 アテナの聖闘士たちは忘れていなかった。 時間はゲームを始める前に戻っているというのに、これから先 数時間分の記憶が、彼等の中には残っていた。 忘れたくなかったことを忘れずに済んだだけだというのに、瞬の目は羞恥のために赤く染まり、その瞳には涙までにじんでいる。 その涙は、だが、あくまでも羞恥の念が生んだ涙で、悲しみのそれでも絶望のそれでもない。 そうして、星矢と紫龍は、今になって気付いた――知ったのである。 氷河が、2ではなく、12の目を出した訳を。 それは世界を救うためではなく、やはり瞬のためだったのだ。 あの時、瞬は、世界を見捨てようとしている氷河に気付き、そんな氷河を悲しみ、泣いていた。 氷河は、2の目を出して、瞬の瞳を永遠に悲しみの涙で濡らしておくわけにはいかなかったのだ。 「や……やだ、放して」 「瞬、俺はおまえが好きなんだ!」 「あ……」 おそらく、氷河の その言葉には、仲間たちの目の前で堂々と交わした、短く見積もって6分以上の濃厚なキスを恥じ入る気持ちを、瞬に 一瞬 忘れ去らせるだけの力があったのだろう。 その言葉を振り切って氷河から逃げ出すことはできなかったらしく、瞬は氷河の手に引かれるまま、元の場所に戻ってきた。 とはいえ、仲間たちの目の前での、長く見積もって7分間弱の濃厚なキスの記憶を完全に払拭できたわけではないようで、ソファの元の場所に戻っても、瞬は身の置きどころをなくしたように身体を縮こまらせ、その顔も伏せたままだったが。 こういう場合、瞬の仲間たちは瞬に対して どういう態度をとるべきなのか。 せめて何か冗談でも言って、瞬の気持ちを くつろがせてやりたいのだが、こういう時に限ってジョークの一つも思い浮かばない。 そんな自分に星矢が苛立ちを感じ始めた時、アテナの聖闘士たちの前に、(文字通り)救いの女神が姿を現わした。 「あら、無事にゲームを終えたのね。よかったこと」 テーブルの上に双六盤がないことを確認すると、沙織は 能天気といっていいほど気楽そうな笑みを浮かべ、彼女の聖闘士たちに そう言った。 まんじゅうの雨、グレイテスト・エクリップスの実現。 彼女自身も それなりに ひどい目に合ったはずなのだが、彼女はその事実を すべて忘れてしまっているようだった。 「なにノンキなこと言ってんだよ! 俺たちの中の誰かがゴールに辿り着いたら、全部 元に戻るんじゃなかったのかよ !? 俺たち、全部 憶えてるぞ!」 なぜ自分たちだけが、この数時間の記憶を失っていないのか。 あのゲームの参加者の一人として当然の疑問を、星矢が沙織にぶつける。 知恵と戦いの女神アテナは、彼女の聖闘士の 非難めいた大声に動じた様子も見せなかった。 「それは、だって――プレイヤーの記憶まで元に戻ってしまったら、あなたたちが あのゲームから学んだことが無駄になってしまうじゃない。あなたたちの記憶が残っているのは 当然のことでしょう。元に戻るのは時間と物理的変化だけよ。あなたたちの記憶は そのまま」 「元に戻るのは時間と物理的変化だけ……?」 沙織に そう言われて、星矢は気付いたのである。 お菓子の家に跳ね飛ばされた際にできたはずの たんこぶが、自分の後頭部から消えていることに。 元に戻っていないのは、確かにアテナの聖闘士たちの記憶だけのようだった。 「そりゃまた、実に気の利いた計らいだな。おかげで俺は、お菓子の家が出現することと お菓子の家を食えることは違うんだっていう、得難い教訓を忘れずに済む」 「星矢はとても有意義な経験をしたようね。よかったわ。これを期に、色々な場面で もう少し慎重に振舞えるようになってくれればいいのだけれど」 悪意に満ちた神々が作った双六ゲームのせいで 地上がどれほどの危機に見舞われたのか、アテナの聖闘士たちが どれほど悲惨な目に合ったのかを知らないアテナが、呑気に笑いながら言う。 嫌味の一つも言い返してやりたいところだったのだが、そして 実際に星矢は そうしようとしたのだが、それは、沙織の、 「ありがとう。信じていたわ」 という一言に妨げられてしまったのだった。 今 彼女の目の前には、もう少しで彼女の信頼を裏切るところだった聖闘士が 一人いる。 いったい その男はどんな気持ちでアテナの言葉を聞いているのか。 さりげなく、星矢は その視線を双六ゲームが置かれていたテーブルの向こう側にいる氷河の方へと巡らせたのである。 アテナの信頼を裏切る寸前だった男は、さぞや深い罪悪感に さいなまれているのだろうという星矢の懸念と期待(?)を、氷河は見事に裏切ってくれていた。 彼は アテナの言葉など聞きもせず(正しくは、聞く振りをして)、自分の隣りに座っている瞬の手を握りしめ、その手と指で瞬をなだめ、気持ちを安んじさせ、あるいは 口説く作業に没頭していたのだ。 その態度のどこにも、アテナの信頼を裏切りかけた者が感じてしかるべき罪悪感は漂っていなかった。 先にその事実に気付いていたらしい紫龍が、星矢の隣りで非常に居心地が悪そうに眉根を寄せている。 「沙織さんって、ほんとに俺たちを信じてんのか? ほんとに?」 ほんの数分前には沙織に嫌味を言おうとしていたことを忘れ、星矢はつい、沙織に尋ねてしまったのである。 無条件で彼女の聖闘士を信じることは危険だと、彼女に暗に忠告するために。 幸い、アテナが彼女の聖闘士たちに寄せる信頼は、星矢が案じるほど盲目的なものでも絶対的なものでもないようだった。 そういう顔を、沙織は彼女の聖闘士たちに向けてきた。 「本音を言うと、あなたたち一人一人への信頼は頼りないところがあるのよ。星矢は直情径行で ひやひやされられるばかりだし、紫龍は真面目で義理堅いくせに 切れると暴走するし、瞬は情に流されやすいし、氷河に至っては 地上の平和と安寧を路傍の石ころ程度にしか思っていないようだし」 「う……」 さすがは知恵の女神、その観察眼は鋭く、その指摘は実に的確だった。 星矢が、彼の女神に直情径行と断じられ、口許を引きつらせる。 そんな星矢に苦笑を投げながら、沙織は しみじみした口調で 続く言葉を口にした。 「でも、あなた 「……」 盲目的ではなく 絶対的なものでもないからこそ、アテナの信頼はアテナの聖闘士たちにとって感動的なものであり、また、アテナに対する彼等の信頼を深めるものだった。 少なくとも、星矢と紫龍は、実際に アテナへの信頼を深めた。 今 この場面に何らかの問題があるとすれば、アテナの聖闘士としての道を危うく間違えそうになった白鳥座の聖闘士と、その白鳥座の聖闘士を正しい道に引き戻したアンドロメダ座の聖闘士が、互いの恋と指を絡めることに夢中で、アテナの感動的な言葉を全く聞いていないということだけだったろう。 Fin.
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