遠乗りの帰り、氷河が その森を突っ切ることにしたのは、朝方 館を出る時には晴れ渡っていた空が にわかにかき曇り、暗雲が立ちこめ始めたからだった。
馬を進めるのに適した道はないが、街道を行くよりは 森を突っ切った方が近道になる。
春の嵐が生む強風も、森の木々が遮ってくれるだろう。
氷河は そう考えて、馬の足を森の中に向けたのである。
もっとも、やがて降り出した雨の音に雷鳴が混じり始めると、高い樹木の多い森の中に入ったのは誤りだったかと、氷河は後悔することになったのだが。

とはいえ、氷河は、過ぎたことを くよくよ思い悩むことが性格的にできない男だったので、すぐに気持ちを切り替え、さっさと この森を抜け出ることの方に意識を向き直らせたのである。
にもかかわらず、まもなく氷河が馬の足を止めることになったのは、森の中で最も高い楠木の根方に、一つの小さな人影を認めたから。
硬く太い幹に身体を預けるように もたせかけ、枝葉から 滴り落ちる雨の雫に肩や髪を濡らし、気落ちしたように顔を伏せて佇んでいる細身の少年。
複雑な意匠の刺繍が施された濃紺のビロードの上着、その上着の襟や袖から覗くブラウスは絹。
今は雨で濡れそぼり泥で汚れていたが、その着衣は 彼が裕福な貴族の家の子弟であることを 氷河に容易に推察させるものだった。

その上、彼は腰には騎士の証である剣をいていた。
どう見ても10代半ばの華奢な肢体の持ち主が、馬上槍試合トーナメントでの勝利や 何らかの戦闘行為での手柄で騎士としての叙任を受けたとは考えられず、となれば彼の騎士の称号は 生まれついての身分の証として与えられた装飾品のようなものなのだろう。
つまり、彼はおそらく、騎士としての力量や技術はないが、生まれがよすぎたために騎士の称号を得ずにいることが許されなかった貴族の子弟――ということになる。

そんな人間が従者も連れず、ウサギやネズミの他には通るものとてない森の中で、たった一人で何をしているのか。
氷河が訝り、馬の足を止めたのは至極当然のことだった。
周囲に怪しげな者共が潜んでいる気配があったなら、これは盗賊の類が 獲物の足を止めさせるために仕組んだ罠なのではないかと、氷河は考えていただろう。
それほどに――いかにも他人の助力を求めている者のそれのように――木の下に立つ少年の姿は頼りなく、細く、心細げだった。

「どうした。こんなところで何をしている」
馬上から氷河が尋ねると、その細い子供は、そう問われることが この上ない恥辱であり不名誉だというかのように唇を噛みしめた――ようだった。
顔を伏せていたので、氷河は、その少年の肩の動きから そうと察しただけだったが。
答えがすぐに返ってこないところをみると、氷河の推察は あながち的外れなものでもなかったらしい。
くぐもった声で、やがて返ってきた答えは、
「落馬して、足をひねってしまって……」
というものだった。

それは確かに、形ばかりでも騎士の称号を有している一人の男子として名誉なことではない。
見れば、上着の右の肩口から袖までが泥に汚れ、髪や頬にまで泥を拭ったあとがある。
自分の主人を振り落とした馬の姿が見えないところをみると、馬は突然与えられた自由に狂喜して、どこかに走り去っていってしまったのかもしれなかった。
愛馬(逃げた馬が主人に愛されていたのかどうかは疑問だが)に見捨てられた主人というのは、到底人に自慢できる立場ではない。
氷河が肩をすくめた気配を察したのか、雨の中で俯いていた少年の声は ますます小さくなっていった。

くつわと手綱を、僕の体格に合わせて きつく締めすぎていたらしいの。それでなくても きつくて苦しかったに違いないのに、雨に濡れたせいで手綱が ますます縮んでしまって――あの子、僕のために ずっと我慢してくれていたの。手綱が切れて、その苦しさから やっと解放されて、つい棹立ちしてしまったのだと――」
不名誉な落馬者は、だが騎乗者を振り落としてしまった馬を責める気はないらしい。
彼が恥じ入っているのは自身の不注意と未熟に関してであって、落馬の事実そのものではないらしいことが、氷河の中に少年への好意を生むことになった。

「住まいはどこだ。送っていこう」
このまま捨て置いていっていい相手ではない。
そう考えて、氷河が尋ねると、少年は慌てたように大きく首を横に振った。
「あ、いえ、大丈夫です。僕のために、あなたに お手間をとらせるわけにはいきません。供の者が、僕の馬で、家人を呼びに行きましたので――。僕、手綱のない馬に乗れるほどの技術は持っていなくて、それで ここで待つことになっただけなんです」
彼の馬はどうやら、未熟ではあるが心優しい主人を見捨てて逃げ出したのではなかったらしい。
氷河は、少し嬉しくなった。

「しかし、こんなところで雨に打たれていたら風邪をひいて熱を出すことになるぞ。雷が鳴っているのに、こんな高い木の下に立っているなんて、狂気の沙汰だ」
「ここで待っていると約束したの。ここに僕の姿がなかったら、迎えに来た者が僕を捜しまわることになるでしょう」
「なら、これを目印に残して、俺の館に雨宿りに来ればいい。この森を抜ければ すぐだ。俺は帰館の途中で“お手間”にはならない」
そう言って氷河は馬を降り、上着の内側の隠しに入れていた短剣を楠木の幹に突き刺した。
柄には北の公爵家の薔薇の紋章が刻まれている。
この紋章の意味を知らぬ者は、この国にはいないはずだった。

「これを見れば、おまえが我が家にいることは すぐにわかるだろう。おまえは俺の館で酒でも飲みながら――いや、蜂蜜水でも飲みながら、迎えが来るのをゆっくり待っていればいい」
泥と雨に濡れている少年は、その紋章を見て、ひどく驚いたようだった。
農民や牧童なら、もしかすると知らないこともあるかもしれないが、この国の貴族の子弟の中に、この紋章の意味を知らない者がいるはずがない。
それは、北の公爵家の始祖が 建国の王から授かった薔薇の指輪に由来する紋章。
権威はともかく、領地の広大さ、財力、武力では王室を凌駕している北の公爵家の紋章だった。
その紋章を“我が家”のものと言う男が、いかに中立地帯とはいえ、供の一人も連れず、こんな森の中を単騎で通りかかることなど、常識では考えられないことなのだ。
彼が驚くのは、当然のことだった。

「どうかしたか」
この貴族の子供は、北の公爵を目の前にして、恐れ入って へりくだり始めるか、それとも これを栄達の好機と考えて おもねってくるのか。
少し意地悪な気持ちで 氷河は尋ねてみたのだが、泥で汚れた服を着た濡れネズミの子供は、氷河の二つの予想のどちらをも裏切った。
彼は、新しい泥遊びの場所を与えられた幼い子供のように嬉しそうな微笑を浮かべただけだった。

「いえ。では お言葉に甘えさせていただきます」
「それがいい。こんな細い身体の子供をずぶ濡れのまま、こんなところに一人で置いておけない。この辺りには時々オオカミも出るし、抵抗する力もない貴族の子供を さらっていこうとする悪辣で けちくさい了見の不心得者がやってこないとも限らないからな」
「はい。本当は心細かったの。雨雲のせいで森の中は暗くなってくるし、もし僕が 悪辣で けちくさい了見の不心得者に さらわれるようなことがあったら、兄が嘆くことになるし」
「この俺を けちくさい男と思う者は、この国にはいないだろう。ひねったのは右足か。横乗りは恐くはないか」
「初めてですが、平気です」

右足をほとんど浮かせて立っていた少年の身体を、馬の背に乗せるために抱き上げる。
氷河は その軽さに驚いたのだが、氷河の腕に抱き上げられた子供は、自分の服についた泥が氷河の服を汚してしまうことの方を気にしているようだった。
「気にするな。森を抜ければ、親切な雨が丁寧に洗い流してくれる。ところで、おまえ、名前は」
「瞬です。この馬、二人も乗って大丈夫でしょうか」
「大丈夫だ。我が家では、人間の食事より 馬の飼葉の方に気を遣っている。こういう時こそ、働いてもらわなければな。もっとも、おまえは綿のように軽いが」
「綿も、水を含めば重くなります」
「それはそうだ」

この国において、南の公爵と一、二を争うことはあっても 決して三に落ちることはない権勢と財力の持ち主に抱きかかえられた態勢で、逃げる場もない馬上にいるというのに、瞬は全く物怖じした様子を見せない。
北の公爵の前で ここまで自然体を保っていられる人間に接するのは、氷河はこれが初めてだった。
氷河の機嫌がいいことがわかるのか、荷重が増したというのに、馬の足までが軽快になったような気がする。
瞬はいったいどこの家の者なのか。
兄がいるというのなら、おそらく襲爵の義務も権利も持っていないのだろうし、瞬の家の者に不満がないのなら(あるはずもないが)、機知に富み 度胸もある この子供を 北の公爵の童僕として取り立ててやるのもいいかもしれないと、氷河は馬上で考え始めていた。






【next】