恋の命題

〜 マメシバさんに捧ぐ 〜







「今夜、おまえの部屋に行くぞ」
城戸邸、ラウンジ、真昼間。
その上、星矢と紫龍が室内にいることを承知の上で、氷河が瞬にそう告げたのは、決して彼にデリカシーが欠如していたからではなかっただろう。
思慮を欠いたからでもないし、そこに第三者がいることに気付いていなかったからでもない。
彼は、自分の発言がどういう事態を招くのかを計算して、あえて仲間たちの耳目のあるところで そう言ったのだ。

氷河が瞬に積年の思いを告白したのが二ヶ月前。
瞬は、その告白を受け入れたことになっていた。
二ヶ月。
せっかちな氷河にしては よく待った方であり、瞬にしてみれば十分に待たせたといっていい時間である。
その時間が過ぎた今、氷河の面目体面を考えれば、瞬はここで『いや』とは言いにくい。
仲間たちの前で氷河の面目を潰すことはできないと 瞬が考えることを期待して、氷河は あえて この場所、この時間、このシチュエーションを選び、瞬にそう告げたのだ。

「あ……あの……あの……はい……」
瞬は、氷河より先に星矢を見、紫龍を見、最後に氷河を見て そう答え、俯くように頷いた。
瞬は明らかに、自分の意思や都合ではなく、仲間たちの目を気にして、そう答えた。
氷河の立場を考えて、瞬は氷河に頷いたのだ。

「氷河。こうでもしないと事態が進展しないという、おまえの焦慮は わからないでもないが、それは卑怯なやり方というものだろう。ここで、瞬に いやだとは言うことはできない」
『はい』と答えて 身体を縮こまらせ瞼を伏せてしまった瞬を横目に見ながら、紫龍が氷河の姑息を責める。
星矢は逆に氷河を睨んでから、瞬の気弱を諭した。
「瞬、おまえも いやなら いやだってはっきり言っていいんだぞ。おまえは一応“地上で最も清らかな魂の持ち主”ってことになってんだし、氷河のケガラワシイ欲望に付き合って、その看板を下ろす必要なんかねーの。おまえ、ここで『はい』って答えることが何を意味してんのか、ちゃんとわかってんのか?」

瞬のためを思って氷河を責め、瞬を諭した紫龍と星矢に、瞬はどこか的の外れた答えを返してきた。
「そ……その、“地上で最も清らか”っていうのは、ハーデスの誤認だよ。常識で考えて、そんなことあるはずないでしょう。この世界には、僕と違って罪を犯したことのない人がいくらでもいるのに」
「でも、仮にも神サマがそう言ってるんだぜ」
「神様っていっても、ハーデスは全知全能なわけじゃないでしょう」
「それはそうだけど」
「だから、ただの誤認だよ」
「そうかなあ……」

瞬が『地上で最も清らか』という看板を全く光栄に思っていないことは、星矢も知っていた。
『地上の平和と安寧を守る』という大義名分があっても、瞬は多くの“敵”を傷付け倒してきたアテナの聖闘士。
しかも、瞬が傷付け倒してきた“敵”の中には 善良な人間も少なからずいた。
瞬は、悪意だけでできている人間はいないと信じているから、瞬にとって 瞬が倒してきた“敵”たちは誰もが善良な心を持つ者たちだったということになる。
そういう者たちを傷付け倒してきた自分が“清らか”と言われることに、瞬は強い抵抗を覚えているのだ。
星矢などは、『瞬が地上で最も清らかな人間だ』と言われれば、『そうだろうなー』とすぐにその意見を受け入れることができたのだが。

「そうかなあ。ハーデスの誤認かなあ」
「そうに決まってるよ。僕が清らかな人間だなんて、そんなのは完全に間違い」
星矢に疑わしげな目を向けられて いたたまれなくなったのか、瞬は ふいに掛けていたソファから立ち上がった。
「お茶……僕、お茶いれてくるね」
本当は、それ以上“清らか”談義を続けることが苦痛だったから席を外そうとしているのに、わざわざ そんな用件を作って席を外すのは、瞬が、自分の感じている苦痛を仲間たちのせいにしないためである。
そんなふうに自分以外の人間の立場や気持ちを思い遣ることが、瞬の習性になっている。
その習性を利用するなどという卑劣なことを平気でやってのける氷河が、星矢には信じ難かった。


「おまえ、ほんとに卑怯だぞ。瞬がああいう奴だってことがわかってるくせに、よく こんなことができるな」
瞬が席を外したのを幸い、星矢が大々的に遠慮なく氷河を なじり始める。
しかし、なじられた方の氷河は平気の平左。
彼は、自らの卑劣に罪悪感を感じている様子を 毫も見せなかった。

「俺は、瞬の清らかな魂とやらを汚そうとしているわけではない」
「汚すのが魂でなければ無問題って理屈か? 瞬の心が傷付くかもしれないだろ。自分が我慢できないからって、こんな汚い手を使いやがって、おまえ、ほんとに最低な男だな。俺たちに悪事の片棒を担がせるんじゃねーよ」
忌憚のない星矢の非難を、しかし、氷河は彼の理屈で退けようとし始めた。
「瞬は、抱きしめてキスするところまでは許してくれる。少しばかり熱のこもった愛撫も、瞬は いやがらない。瞬は俺に触れられるのは好きなんだ。それがわかるのに、その先が許されないのは地獄だぞ、地獄」
「おまえが一人で勝手に地獄に落ちてるんだろ。瞬を巻き添えにすんなよ」
「巻き添えにする代償に――俺自身の快楽や欲望を犠牲にしても、必ず瞬を気持ちよくさせてやるさ」
「そういう問題じゃないって言ってるんだよ、俺は!」

氷河には一般的常識的な理屈が全く通じない。
厚顔無恥としか言いようのない氷河の前で、星矢は盛大な溜め息を洩らすことになった。
「ほんとにさ、“地上で最も清らか”を売りにしてる瞬が、なんで こんな姑息なこと考える男を好きになったのか、俺にはまるで わかんねーぜ」
「それは、俺も不思議だ」
「阿呆! 自分で言うな!」
本当に恥を知らない男である。
こんな男が 地上の平和と安寧を守るアテナの聖闘士の一人で、しかも自分の仲間であることが、星矢は恥ずかしくてならなかった。
この男を懲らしめる正義の味方が どこからか疾風のように現れてくれないものかと、そんなことを星矢は半ば以上 本気で思ったのである。

星矢の願いは叶ったと言っていいだろう。
そこまで姑息な手を使って お膳立てした夜間の瞬の部屋訪問計画を、氷河は成し遂げることができなかったのであるから。
つまり、氷河は、その夜 瞬との交合に及ぶことはできなかったのである。
最愛の弟の身に迫る危機を察知して、あの男が弟の許に帰ってきてしまったために。

その日、夜の8時すぎ。
その男は、前触れもなく ふらりと城戸邸のエントランスホールに姿を現した。






【next】