「光り輝くように美しい? なんだ? 瞬の話か?」 光明皇后よりは はるかに氷雪害や冷害の悲惨を知っているはずの男が、光明皇后より はるかに太平楽なことを言いながら、仲間たちの前に現れる。 全く見当違いな発言と共に その場に登場した男の名は、もちろん 氷河といった。 「氷河……どうして? 雪がひどくて、しばらく飛行機は飛ばないって――氷河は あと4、5日は帰ってこれないだろうって、沙織さんは言ってたのに――」 東シベリアから東京まで、直線距離で千キロ超。 いかにアテナの聖闘士が常人には持ち得ない力を有していても、それは 走り泳いで移動できる距離ではない。 氷河が今 ここに現れるのは、『菊花の約』の宗右衛門のように 魂だけの存在にでもならない限り、不可能なことのはずである。 が、氷河は ちゃんと生きているように見えた。 「そんなに長い間、おまえと離れていられるか。ペヴェクから300キロほど走って ウラジオストクに出て、そこから船で帰ってきた」 「ウラジオストクまで走って――って……。どうして そんな無茶をするの。もし雪の中で方角を見失うようなことになったら、どうするつもりだったの……!」 問題は、距離ではなく雪である。 無事に辿り着けたからよかったものの、へたをすればホワイトアウトの状態に陥って遭難し、凍死する可能性もある危険な冒険。 氷河は無事に仲間たちの許に帰ってきた――帰ってくることができたのに――氷河の報告を聞いて、瞬の頬は蒼白になった。 そんな瞬とは対照的に、氷河の口調は呑気なものだったが。 「俺が そんなドジを踏むものか。周りに雪しかなくても、俺が迷うわけがない。いつも おまえのいる方向が光り輝いて見えていたからな。しかし、まさか こっちも雪とは。まあ、東京の雪なんて、俺に言わせれば、鬱陶しい埃のようなもんだが」 氷河は『こうして無事に帰ってきたのだから、それを喜んでくれればいい』程度の気持ちでいるようだったが、瞬は、そこまで楽観的な人間にはなれなかったのである。 頬に血の気が戻ってこない瞬に同情したのか、氷河の無謀に呆れたのか、あるいは 場を和ませようとしたのか――紫龍が、氷河を揶揄するような言葉を口にする。 「鬱陶しい埃か。瞬が、その埃を、おまえと二人で見たいと言っていたところだったのに」 「なに?」 紫龍に そう言われた瞬が、僅かに瞼を伏せる。 窓辺に立つ瞬と、その背後にある漆黒の夜、その夜の中で 舞い光る銀色の雪。 それらのものを視界の内に収めるや否や、氷河は すぐに自分の意見を変更した。 「瞬と二人で見る雪は格別 美しく見えるな。鬱陶しい埃も、瞬と共にあると、それだけで宝石のようだ」 「おまえは調子よすぎんだよ!」 自称は“クールな聖闘士”、その実 ただの お調子者としか思えない氷河を、星矢は大声で怒鳴りつけた。 氷河が登場するまで、そこにあったのは 静かで趣のある冬の夜だったのに、彼が姿を現わした途端、場は騒がしくなり、幽遠の趣も 閑雅の妙も即座に どこかに霧散してしまう。 賑やかさでいうなら、星矢の方が氷河より一段も二段も上なのだが、さすがの星矢も一人では騒げない。 星矢が陽気で賑やかな人間でいるためには、共に騒げる相手、騒ぐための相手が必要なのだった。 「では、光り輝くように美しい人というのは、瞬と俺のことか」 「おまえのことじゃねーよ、この自身過剰の大馬鹿野郎が!」 星矢の声の音量は、氷河登場以前の3倍強。 青銅聖闘士たちは今夜は もう、“静かで趣のある冬の夜”を楽しむことはできなさそうだった。 「しかし、この地上に他にはいないだろう。そんな形容詞を冠して、嘘にならない人間は」 おそらく、氷河は、極めて真面目に、完全に本気で そう言っている。 そこが 彼の偉大 かつ 厄介 かつ 傍迷惑で始末に負えないところだった。 「おまえの目には そう見えているんだろうが、そうじゃない。光明皇后のことだ」 「光明皇后? 光明皇后というと、気弱な亭主の尻を叩いて 東大寺の大仏殿を作り、国の財政を破綻させかけた、日本史上 稀に見る超浪費家の皇后――だったか」 へたに知識があるせいで、氷河の光明皇后評は 星矢のそれより 一層辛辣で容赦がない。 もっとも、光明皇后その人が、『女のくせにハゲ』という星矢の推察と、『日本史上 稀に見る超浪費家』という氷河の評価のどちらに より腹を立てないかというと、それは実に判断の難しい問題だったが。 いずれにしても、光明皇后は今より1200年以上も前に その命を生きた女性。 彼女が文句を言うために わざわざ この場に乗り込んでくることはない。 だというのに、まるで光明皇后の怒りを静めようとするかのように 彼女の弁護を始める瞬は、もしかしたら悲しいほどに苦労性な人間なのかもしれなかった。 「そんな……それは事実だけど、彼女が大仏殿を作ったのは 仏の力による民の救済を願ってのことで、彼女は救護院や医療施設を作って 民のために力を尽くしてもいるし……」 氷河のそれとは ほぼ真逆の瞬の光明皇后評。 苦労性の仲間に、紫龍は憐憫の目を向けることになった。 「氷河は人の欠点だけを見、瞬は美点だけを見ようとする。おまえ等は、二人揃っていないと、良い方にであれ 悪い方にであれ 考えが偏りすぎた人間たちになってしまうな」 紫龍は断じて氷河を褒めたつもりはなかった。 まして、氷河を喜ばせようとする意図など、彼には毫もなかったのである。 が、氷河は紫龍の言葉を大いに喜び、 「そうだ そうだ。俺と瞬は いつも一緒にいるべきだ!」 と、一人で勝手に 良いように解釈して浮かれだした。 氷河の前向きすぎる反応に、紫龍は どっと激しい疲労感を覚えることになったのである。 そして、こんな疲れる男の相手は さっさと切り上げ、風呂にでも入って 寝てしまいたいと思った。 だが、時刻は まだ宵の口。就寝には早すぎる。 そういった様々の条件が重なって、紫龍は、つい 何の気なしに言ってしまったのだった。 彼が 後刻、『あの一言を言わずにいれば』と深く後悔することになる、その言葉を。 のちに 龍座の聖闘士に深い後悔をもたらすことになった、その言葉。 それは、 「光明皇后といえば、やはり千人風呂の逸話だろう」 という、本当に何ということもない発言だった。 氷河が輝くばかりの美貌の持ち主だとか、氷河と瞬は いつも一緒にいるべきだとかいう与太話以外の話をしたがっていた星矢が、紫龍から提供された新しい話題に 即座に食いついてくる。 「風呂? 奈良の大仏を作った皇后サマなら、当然 奈良時代の人なんだろ? その時代に風呂なんてあったのか?」 「あったに決まっているだろう」 まさか そんな質問が飛んでくるとは思ってもいなかった紫龍の疲労感が、更に募る。 彼を疲れさせる人間は 氷河ただ一人ではなかった――彼の周囲は そういう人間で あふれていた。 今更ながらに その事実を思い出し、紫龍は逆に開き直ってしまったのである。 氷河は 人の欠点だけを見、瞬は美点だけを見る。 星矢は、特定分野の知識の欠如が はなはだしい。 人間は、もとより不完全な存在。 だからこそ 人は孤独にならずに、互いの欠点を補い合い 支え合って生きていくべきなのだ――と、紫龍は、(かなり無理をして)自らの思考をポジティブ方向に転換し、疲れる仲間の一人に、光明皇后の施浴についての説明を始めたのである。 「当時の人々の生活環境は、現代に比べれば到底 清潔なものとは言い難いものだったから、伝染病で亡くなる者も多かったんだ。で、ある時、光明皇后は法華寺の浴室で 千人の俗人の垢を洗い流すという願をかけ、早速 その願を成就するための行動を開始した。彼女は 順調に数を重ね、あと一人というところまできたんだが、千人目に現れたのは全身に血膿をもつ悪疾の患者で、あろうことか、その男は 光明皇后に体中の膿を その唇で吸い出して欲しいと求めてきたんだ。光明皇后は 自分の唇で その男の全身の膿を吸い出してやり――まあ、その後は この手の伝承では ありがちな展開が展開された。その悪疾を患っていた男は 実は仏の化身で、彼は 光明皇后の慈悲の心を見届けると 本来の気高い姿に戻り、いずこともなく姿を消した――という話だ。無論 それは伝説で、史実ではないだろうが」 史実ではないにしても、紫龍は 一応、尊くも有難く感動的な話をしたつもりだった。 天皇の后とはいえ 俗世の衆生の一人にすぎない光明皇后の信心を仏が試み、彼女は その試みに見事に応え 打ち克った――のだ。 美貌を謳われた高貴な女性が、悪疾に犯され 目を背けたくなるような醜い姿をした貧者を厭うことなく、その快癒のために努めた――。 無論、常識的に考えれば それは作り話にすぎないのだが、そうであるにしても、それは一応 ナイチンゲールやマザーテレサ張りの美談である。 ゆえに、紫龍はまさか、氷河から、その逸話に対して、 「妙に 隠微で なまなましい話だな。それが日本の風俗サービスの起源というわけか。日本はすごいな。ロシアは足元にも及ばん。日本に対抗できるのは古代ローマ帝国くらいのものだろう。一国の皇后自ら、風俗勤め。悪い病気をうつされたら どうするつもりだったんだ。どこの馬の骨とも知れない男の全身の膿を吸い出すとは」 などというコメントが付されるとは思ってもいなかったのである。 「氷河、あのな……」 この話の感動ポイントはそこではない。 そこではないはずなのだが、氷河は 妙に――あるいは 当然のごとくに――そこにだけ固執し続けた。 「俺が仏なら、もっと違うものを吸い出してもらうがな。もちろん、サービスしてくれるのが瞬の場合に限るが」 「氷河、おまえ、仏罰が当たるぞ。っていうか、おまえ、瞬の前で、よく そんな話ができるな」 奈良時代に風呂があったことは知らなくても、紫龍の話の論旨は正しく理解できた星矢が、呆れた顔で氷河を見やる。 星矢にそう言われて、氷河は ぎくりと身体を強張らせた。 “清らか”と“無知”は異なるものである。 瞬は その方面に関して(主に氷河の尽力によって)決して無知ではなかったし、勘もよかった。 仮に瞬が もし その方面に疎い人間だったとしても、氷河の語り口や その声の響きから、氷河の軽口が高尚な内容のものではないことは、瞬にも感じ取れていただろう。 瞬は もちろん、氷河の口にした下ネタの意味を理解できていた。 そして、だから、困ったように顔を伏せたのだ。 瞬の その様を見て、氷河は 自分が 言ってはならぬ人の前で 言ってはならぬことを言ってしまったことに気付いたのである。 久し振りに瞬に会えて、少々 浮かれすぎ、口まで軽くなってしまっていたようだと、氷河は己れの軽率を心底から悔やむことになった。 瞬は羞恥のために、氷河は後悔による引きつりのために、続く言葉が出てこない。 互いに口をきけずにいる二人を見やり、紫龍が、 「瞬。この馬鹿の沸騰している頭を落ち着かせるために、お茶をいれてきてくれ」 と言い出したのは、決して氷河のためではなく、あくまで瞬のためだったろう。 「こんな馬鹿たれが、お茶を飲んだくらいで落ち着いたりなんかするもんかよ。殴り倒して おねんねさせちまった方がいいぜ」 星矢は吐き出すように そう言ったが、瞬は お茶で氷河(の頭)はどうにかなると思いたかったらしい。 「カモミールか オレンジピールのお茶がいいね。すぐ いれてくるよ」 上擦った声で そう言うと、お茶の準備をするために、瞬は 速やかに――むしろ 逃げるように――ラウンジを出ていった。 |