「親睦会で、初対面の人と 氷河が話をする気になって、話が弾む方法……」
「いや、別に合コンにこだわる必要はないし、初対面の相手って限定する必要はないんだけどさー」
おそらく氷河は、そんなシチュエーションで運命の人に出会うことはない。
そう確信して、星矢は口を挟んだのだが、はたして その声は瞬の耳に届いていたかどうか。
命をかけた戦いを共に戦ってきた仲間の幸福な恋のために、真剣そのものの顔をして、瞬は その時の氷河の振舞いについて考えることに没頭していた。
ややあって、いいアイデアを思いついたらしい瞬が、ふっと顔を上げる。

「じゃあ、こういうのはどう?」
「こういうのって、どういうのだよ?」
眉と目許に 不安の色を にじませて、星矢は瞬に尋ねたのである。
瞬が何を言い出すのか、もちろん 星矢は不安だった。
星矢が 氷河と親睦を深めてほしいと思っている相手は、絶対に合コン会場で出会うことのない相手、そして、既に初対面ではなくなっている相手だったのだ。
瞬が 一度 ごく浅く頷いてから、自分が思いついたアイデアを仲間たちに披露してくる。
「うん、あのね。親睦会に集まった人たちが お互いを知り合うために、それぞれの“おふくろの味”について話し合うようにするの。それなら、氷河も話す気になるでしょう? お互いの家庭環境とか、食事の好みともわかって、いいんじゃないかな? それで気の合う人がいたら、今度 お料理を作りに行ってあげるって約束してみたりとか、より親密な交流に発展することもあるかもしれないし。もちろん、親睦会の出席者が全員、お母さんが健在か、お母さんとの思い出がある人だけだと、事前に確認しておくことは必須だよ」

“おふくろの味”を持たない人には その話題は つらいだろうと、それは瞬らしい気遣いだった。
当たりまえのように 自分の“おふくろの味”を持っている人間の中には、その気遣いができない者も多いに違いない。
人は、自分の“当たりまえ”が 自分以外の人間にとっても 当たりまえのことだと思いがちなものなのだ。
「おまえには……いや……」
瞬に何事かを言いかけて、結局 氷河は そうするのをやめたのである。
瞬は“おふくろの味”を持っていない――知らない。
瞬の気遣いは、瞬自身がそういう人間だからこそ生まれた気遣いともいえたが、その気遣いに気付かぬ振りをすることが、瞬に対する氷河の気遣いだった。

仲間の気遣いに気付いたらしい瞬が、その気遣いに微笑んで、氷河に尋ねてくる。
「氷河の“おふくろの味”はどんな? 氷河のマーマは、どんな料理が得意だったの?」
「やっぱ、ボルシチとかかよ? ボルシチって、日本の肉じゃがみたいなもんだろ? みそ汁と並んで、おふくろの味の代表格だよな」
瞬同様、“おふくろの味”を知らないだろう星矢が、こちらは気遣いというより好奇心に突き動かされている様子で、身を乗り出してくる。
ボルシチと肉じゃがを同類項で くくる星矢の感性には問題があるような気がしたが、氷河は その件については あえて指摘言及することはしなかった。
ホルシチと肉じゃがの相違点を並べ立てて 星矢に懇切丁寧に説明してやるのは不毛――どう考えても 時間の無駄である。
それより 氷河は、瞬に問われたことに答えなければならなかったのだ。
母を過ごした幼い日々に思いを馳せ、ある一つの答えに行き着く。

「グミ……かな」
「グミぃ !?」
それは、星矢には 完全に想定外の答えだったのだろう。
氷河の“おふくろの味”を知らされて、星矢は辺りに巣頓狂な声を響かせた。
ひとしきり驚いてから、思い直したように顎をしゃくる。
「いや、でも、考えてみれば、グミを家庭で作れるってすごいことか」
「違う。そのグミじゃない。植物のグミだ。グミの実」
「氷河、おまえ 俺をからかってんのか? いい加減にしろよ。植物のグミって、それ、料理じゃないだろ!」

星矢は 氷河の言葉に いちいち驚くのが面倒になったのか、今度は最初から溜め息混じりだった。
星矢の指摘は実に尤もなものだったが、氷河は 星矢をからかっているつもりは全くなかったのである。
彼は、(星矢ではなく)瞬に問われたことに、至極 真面目に答えたつもりだった。
「だが、マーマと一緒に食べた思い出が いちばん鮮やかなのはグミだ」
「マーマと一緒にグミの実を摘んで、一緒に食べたの? そういうの、素敵だね。僕は そういうのだって、立派におふくろの味だと思うよ。氷河とマーマが仲良しだったこともわかるし、それって とっても綺麗で素敵なエピソードだよ」
瞬の優れたコミュニケーション能力や優しさは、豊かな想像力によるところ大だと思う。
人間の言葉の背景にあるものを、瞬は その豊かな想像力で 鮮やかに思い描いてみせるのだ。

「マーマはいつも、小さなグミの木の歌を歌いながら、グミの実を摘んでいた」
「小さなグミの木の歌?」
それは古いロシア民謡だった。
決して明るくも楽しくもない――むしろ哀切の漂う歌である。
「知ってる。大きくて広い河の両岸に、グミの木と樫の木が立ってて、グミの木は樫の木に恋してるんだよね。でも、二人の間にある河は広くて遠くて――いつかきっと思いは届く、届きますように――っていう、すごく切ない歌。僕は訳詞でしか知らないけど、原曲の歌詞も そうなの?」

瞬の言う通り、それは切ない歌だった。
革命以前の帝政ロシア時代。
工場の労働制度のために、自由に会うことも ままならなかった恋人たちの心を歌った歌。
広く大きな河を隔てて立つ グミの木と樫の木が 引き離された恋人同士を表わしているのだということを 氷河が知ったのは、彼が母を失って数年以上が経ってからのことだったが、母が 会いたくても会うことのできない誰かを思って その歌を歌っているのだろうことは、幼い氷河にも感じ取れていた。
「誰か 会いたい人がいるのかと訊いても、寂しげに笑うだけで、マーマは答えてくれなかった。生きている人なのか 死んだ人なのかは わからないが、マーマには 会いたいのに会えない人がいたんだろう。俺が憶えているのは、あの時のマーマの微笑で、味ではないのかもしれない。グミの実は甘かったはずなのに、苦かったような気がする」

「切ないのに……可愛い思い出だね……」
そう告げる瞬の微笑にも 切ない色が混じる。
瞬の胸に訪れたのは、母の記憶を持つ仲間への羨望だったのか憧憬だったのか。
あるいは、母の思い出を持たない我が身を嘆く気持ちだったのか。
「この話は もうやめよう」
母親の思い出、おふくろの味を持たない人がいないことを確かめた上で――と、瞬に忠告されていたのに、不用意に それを語ってしまった自分を、氷河は後悔した。
後悔して、氷河は その話題を打ち切ろうとしたのである。
氷河が自分のために そう言ってくれているのが わかったのだろう瞬が、それまでの切ない微笑を、意識して明るいものに変える。
そして、瞬は、自分の思い出の味を語り出した。



■ 小さなグミの木(著作権保護期間は終了しています)



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