とにかく、そんな経緯で、そのビルに入るたび、俺は必ず 地下1階に続く女の行列を確かめるようになっていた――行列の先にあるものを気にするようになっていた。

そんな ある日。
ビルに入ったら、女たちの列がなかったんだ。
時刻は まだ宵の口。8時頃。
これまで そのビルに来るたび、必ずあった女たちの列。
平日にも、週末にも、祝祭日にもあった行列がなかったんだ。
今なら 列の先にあるものが 何なのかを確かめられると、俺は思った。
行列がないってことは、店(?)が閉まってるってことなんだろうが、それでも、悪党のアジトの入口くらいは確かめられる。

そう思ったら もう、俺の心の高揚は静めようがなかった。
これほどの高揚興奮は、ガキの頃、祖父さんの田舎に行った時、『入ルナ、危険』の札がかかったロープを乗り越えて、昼間でも真っ暗な洞窟の中に忍び込んでいった時以来だ。
あの時 洞窟の中にいたのは無数のコウモリだけだったが、あの時以上に胸を高鳴らせて、俺は地下に下りていった。
行列の存在を知って2ヶ月。
謎のバーとの 初めてのご対面だ。


そこにあったのは、一見したところでは、ごく普通のバーだった。
バーってのは、店主の好みというか こだわりが出るものだから、何をもって“普通”というか、その定義はないようなものなんだが――。
それでも、外界を気にせずに酒を飲めるように、外から店内が一切 窺えない造りになっているのは、バーとしては標準的な構えといえるだろう。
全面ガラス張りで店内が丸見えのバーは、酒を楽しむためじゃなく、バーにいる自分を他者に誇示することを楽しむための展示室みたいなもの。バーとしては欠陥品。
その点、今 俺の前にあるバーは、ちゃんとしたバーだ。

ちゃんとしたバーだから――ドアを開けないと 中の様子を見ることはできない。
だが、ドアの上部に嵌められている灰色の着色ガラス越しに、店内の照明がついていることは わかった。
ドアも開いている。
『 CLOSED 』のプレートもない。
休業というわけではなさそうなんだが、なぜか 今日は女たちの行列がない。
あの女たちのバリケードがないなら、そこは、くたびれた50男が入っていっても さほど不自然じゃない、見事に普通のバーだった。
鈍色の 少々重たげな、クラシックでも モダンでもないドア。
そのドアが、俺に『入れ』と言っているようだった。
『入れ。この中には、おまえの大好きな危険という名の酒がある』と。

多分、ドアは嘘を言っていない。
そのドアの向こうには、俺の好きなものがある。
命をやりとりするような何事かがある場所、命をかけずに過ごすことは許されない時間。
眠りに落ちる直前、今日も生き延びることができたと思う、あの歓喜。
危険の香りのする空気。
そいつらが、このドアの向こうにはあるんだ、きっと。
ダイナマイトが山積みになっているテロリストのアジトに踏み込む時にも、俺は、これほど緊張しなかった。
どちらかが 絨毯に躓いて転んでも戦争が起きるだろうと言われていた某国大統領と 某々国首相の会談の警備の指揮を任された時も、俺は ここまで興奮しなかった。
アフガンの紛争地域で、空爆作戦中に 地上から人質奪還作戦を遂行しなければならなかった時も、俺は ここまで 浮かれることはなかった。

『開けろ』と誘うドア。
『開けたら、命の保障はない』と脅すドア。
『おまえは何のために 平和な日本に帰ってきたんだ』と嘲笑い、挑発するドア。
開けずにいるべきだと わかっているのに、開けずにはいられない。
それが俺という男だ。
つまり、馬鹿ということだな。
自覚はしている。

ドアを開ける前から、それが婚活バーじゃないことはわかっていた――ドアを開けて、確信した。
そこが そんなものであるはずがない。
肌に突き刺さってくるような鋭い空気。緊張感。
地雷だらけの戦場に足を踏み入れる時以上に神経を張り詰めさせて、俺は店の奥に向かって歩を進めていったんだ。

カウンターに客が一人いた。
小さい――華奢で細い子供だ。
へたをすると、高校生か中学生――と、俺が思ったのは、その客が身に着けているスーツが学校の制服に見えたからだ。
実際は、もっとずっと いい仕立てのスーツだったが。
いずれにしても、俺は 俺の心身の緊張を緩めることはしなかった。
この店で行われている非合法行為が、未成年に酒を飲ませる程度の犯罪であるはずがない。
俺が店内に入っていくと、その客が顔だけ向きを変えて、俺の方に視線を巡らせてきた。

目の覚めるような美少女。
大きな瞳。
優しく やわらかく 温かいのに、厳しく澄んでいる瞳。眼差し。
その瞳に見詰められても、俺は もちろん 表情を変えなかったが(そのはずだ)、その瞳に見詰められた途端、俺の中のエマージェンシー・コールが けたたましく鳴り響き始めた。
綺麗で、優しげで、そして おそらく尋常でなく清廉潔白。
度を越して善良な人間が いかに危険なものであるのかを、俺は知っている。
そういう人間と対峙した時、力は何の役にも立たない。
心が――自我を強く保っていないと、心が呑み込まれてしまうんだ。
自分でも気付かぬうちに、優しく捻じ伏せられてしまう。
『気をつけろ、気をつけろ』
俺のエマージェンシー・コールは そう繰り返していた。
『気をつけろ、絶対に油断するな』と。

カウンターの中に視線を転じると、そこにいるバーテンダーは金髪。
目つきの鋭い、若い男だった。
こっちも危険だ。
見るからに危険。
だが、こういう男の方が かえって安全なんだ。
常に危険を意識して、気を緩めずにいられるから。
しかし、この男も異質だ。

綺麗事の通じない裏の世界の者にしては綺麗すぎる。
当然、目立ちすぎる。
表沙汰にできない仕事に携わる者は目立たないようにするのが常套という世間の思い込みを逆手にとっているのかもしれないが――だが、この男は せめてロイド眼鏡でも掛けて、この眼差しの鋭さを隠すべきだ。
この男の目は氷のようだ。
冷たく青白い氷。
色は真っ青だが。






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