前期3ヶ月以上の時間をかけて学んできたことを、口頭試問が始まるまでの数時間で 総ざらいできるわけがないのだが、その3ヶ月以上の時間を無駄にしたくない学生たちは、昼食には早すぎる時刻のせいもあって、全員が教室に残っていた。
ほとんど無駄口を叩く者のいない静かな階段教室。
静寂の中で、突然 瞬に、
「今日、城戸さんを送ってきた車の美人、誰」
と尋ねてきたのは、瞬と解剖学実習の班が同じだった石屋という同期生だった。

石屋は浪人しているので、瞬より1歳 年上。
広島から上京し、1年間の浪人生活を東京で過ごして、この大学に入学したせいか、話す言葉は すっかり標準語である。
年下の瞬を彼が『城戸さん』と呼ぶのは、初めて言葉を交わした時に、彼が瞬を女子と誤認して そう呼んだから。
男子とわかって『城戸くん』に改めるのが気まずかったのか、彼は ずっと、瞬を呼ぶ時は『城戸さん』で通していた。

美人とわかるほどの距離で沙織の顔を見ることができたのに、そう尋ねてくるということは、彼はグラード財団総帥の顔を知らないのだろう。
浪人中は 勉強以外のことは何もしなかったと言っていた。
彼は、日本の首相の顔はさすがに知っているだろうが、厚生労働大臣の顔や 経団連会長や日本医師会会長の顔も知らないかもしれない。
無用の詮索をされずに済むので、それは瞬には都合のよいことだった。

「親戚です」
「あ、そうか。そういうパターンがあり得るのか。すごい美人だったもんな。なるほど。美形の一族なんだ。納得。安心した」
おそらく彼は、試験に受かる自信があるから そんな軽口を叩くのではない。
既に 俎板の鯉の気持ちになっているがゆえの無駄話。
今更 焦っても仕方がないと考えているのか、石屋はテキストも開いていなかった。
「安心?」
瞬の前の席に後ろ向きに座っていた彼は、瞬の顔を上げさせるのに成功したことに、気をよくしたらしい。
彼は、笑顔で とんでもない話を始めてくれた。

「先月 発売された週刊誌に、うちの大学の童貞率が45パーセントって記事が出たの、知ってる? 150名くらいの在校生に、性体験の有無について聞き取り調査したらしいんだけどさ。そういうインタビューに答える奴って、その経験のある奴が多いだろうし、経験がなくても見栄を張って、経験あるって答えた奴もいたかもしれないから、実際の童貞率は60パーセントくらいじゃないかって、僕は思ってるんだ。で、あの美人が城戸さんの彼女だったら、城戸さん、非童貞組なのかなーと思って、焦ってたわけ」
「……」

事実とは異なる憶測であるにしても、処女神アテナと 彼女に仕える聖闘士に対して、何という恐ろしい憶測をしてくれるものだろう。
瞬は、顔が強張った。
石屋は童貞組なのだろう。
そして、瞬を お仲間と思って安心したいらしい。

「解剖学実習しててさあ、僕、性体験がないのに医者になるのって、問題なんじゃないかって思うようになったんだよ。婦人科実習の前に、異性との性交渉を経験しといた方がいいのかなーって。城戸さんの考えを聞きたい」
「学業のためにですか」
瞬が反問すると、石屋は、
「いい医者になるために」
と、瞬の疑念の内容を訂正してきた。
訂正されても、それが瞬にとって答えにくい質問であることに変わりはなかったが。
『それはよくない』と断じることもできず、かといって『それは よいことだ』と推奨することもできない。

「城戸さんはどっち? 異性との性交渉の経験あり? 医者になるのに、性体験は必要だと思う?」
「答えなければなりませんか」
秘密にしたいわけではなく、答えたくないわけでもなく――それ以前に、瞬は純粋に(?)その質問に答えることができなかったのである。
『異性との性交渉の経験があるか』と『医者になるのに、性体験は必要だと思うか』。
その2つの質問は異なる。
更に言うなら、『性交渉の経験があるか』と『異性との性交渉の経験があるか』も異なる質問なのだ。

やわらかく回答を拒否した瞬を、石屋が 童貞組と非童貞組のどちらに分類したのか、瞬には わからなかった――わかる必要もない。
「また、そうやって笑って ごまかす」
瞬の回答拒否を不満に思いはしたらしいが、彼は それ以上の詮索はしてこなかった。
代わりに、別の分類の話を始める。

「うちの大学ってさ、学生を変人揃いにしたいんだか何なんだか、外部の奴等が やたらと変な分析をしたがるだろう? 半数が童貞だとか、4人に1人が自閉症スペクトラムでコミュニケーション障害を抱えているとか」
「そんな調査結果があるんですか?」
「根拠のない憶測だよ。他にも、いろいろ――たとえば、うちの学生は、勉強が好きで好きで趣味が勉強ってタイプが3分の1、特に勉強が好きだったわけじゃなく、テストのコツをマスターしたテクニカル派が3分の1、小中学までは勉強しなくても優等生だったけど、高校で 上には上がいることを知って努力を開始した遅れてきた努力型が3分の1――なんて分析もある」
「……分類項の設定が適切ではないですね。子供の頃からずっと努力してきた学生や、ふと思い立って入試を受けたら入学を許可されてしまったような学生は どこに分類されるんです。そもそも、人間をすべて そんな大雑把な分類に当てはめることは不可能でしょう。何にでも例外はあります」
「それは そうなんだけど、僕なんか、童貞組で、一応 コミュニケーション障害じゃないつもりで、高校で打ちのめされた努力型って、大雑把な分類に 当てはまるんだよ。癪なことに」

言葉通りに、癪でたまらないという顔をする石屋に、瞬は、
「そうなんですか」
と、間の抜けた言葉で応じることしかできなかった。
瞬は、自分を童貞と表していいのかどうかを知らなかったし、コミュニケーション障害ではないつもりではいるが、人に言えない事情を多く抱えている一種の秘密主義者。高卒認定試験に合格後、大学受験した学生。
つまり、どの分類でも例外。あらゆることで“その他”に属する人間だったのだ。






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