青い瞳の… 〜ホワイトデー編〜





「あの……星矢、紫龍。相談があるんだけど……」

いつもと同じセリフでホワイトデーは始まった。

風も陽光も少しずつ春めいてくるこの季節。
城戸邸のラウンジにも、ご多分に洩れず初春のやわらかな陽の光が満ちている。

そんな季節の移り変わりなど意に介した様子もなく、相談事を抱えた瞬の表情は(表情だけは)今日も沈痛そのものだったが。

そして星矢と紫龍は――彼等もまた、春が近いからと呑気に浮かれていられるような平穏な人生を歩んではいなかった。
彼等がバレンタインデーに受けたダメージは、たったひと月の時間の経過ごときで癒されるような生易しい代物ではなかったのである。なにしろ、彼等は、"どこか普通でない"と思っていた友人たちが大多数側に属し、真っ当この上ないと思っていた自分たちが、世間では少数派だったという信じ難い現実を思い知らされてしまったのだから。

正しいか正しくないかという類の判断と、普通か普通でないかという判断は、根本的に全く異なる次元において為される。少なくとも後者の判断は数によって決定されるものであり、その視点から見る限り、星矢と紫龍は"普通"ではなかった。つまり彼等は多数派ではなかったのである。

絵理衣の作ったホームページにバレンタインデーの翌日には出現した
"氷河と瞬ちゃんのバレンタインレポート"なるインデックスが、その残酷な事実を星矢と紫龍に冷酷に教えてくれたのだった。

ホームページ上にアップされた氷河と瞬の写真がものを言ったのだろうが、アップ当日から絵理衣のホームページへのアクセス数はうなぎのぼりで、表の掲示板にはその数と同じだけの激励カキコが、裏の掲示板には、他聞をはばかるような憶測カキコや常軌を逸した妄想カキコが次から次へと出現した。

それは、星矢と紫龍に、うら若き乙女たちへの大いなる不信感を抱かせることになったのだが、彼等を真に疲れさせたのは、彼女たちの妄想が、現実の氷河と瞬の言動に追いついていないという事実だったろう。

現実の氷河と瞬が、彼女たちの妄想のはるか上をいっているという事実を知っている星矢と紫龍は、ただただ力無く笑うしか――もとい、泣くしかなかったのだった。

それはともかく。

「な…なんだよぉ…っ! おまえら毎日仲良しこよしで、朝から晩まで浮かれてて、晩から朝まで元気はつらつで、不安も不満も相談事も入り込む隙なんかないじゃんかよぉ……!!」

相談事を聞かされる前から、既に星矢は泣いていた。
B型大らか人間の典型だった星矢のあまりに悲惨なその様子に、紫龍は思わずもらい泣きしてしまったのである。
しかし、星矢にもらい泣きしている当の紫龍とて、今年に入ってからずっと自律神経失調症気味なのだ。

瞬は、しかし、もちろん、そんなことには気付いてもいなかった。
自分の幸福が、自分以外の人間に――ましてや大切な仲間である星矢や紫龍に不幸をもたらすことがありえるなどという事実は、瞬には考え及びもつかないことだったから。
瞬は、他人の幸せで自分自身もまた幸せになれる人間だったから、それは当然のことだったろう。

だから、星矢たちに相談事を持ちかける瞬の瞳が曇ったのは、仲間の苦衷を察したからではなく、瞬自身の悩みのためだった。

薄紅色のサフランの花のように可憐な面差しの瞬が、桜の花びらのようなその唇から、恐怖の相談事を情け容赦なく吐き出す。瞬は、信頼する仲間の心暖まる助言を心底から求めていた。

「昨日まではそうだったの……。氷河は優しくて、僕がしてほしいことは何でも何回でもどんなふうにでもしてくれて、僕、すっごく……」
ポッと頬を染める瞬にも、既に星矢と紫龍は無感動である。瞬のこんな様子にいちいち「かーわいー♪」などと思っていた日には、神経が幾つあっても足りない――むしろ、より激しい精神の錯乱を招くだけだということを、彼等は身にしみて知っていたのだ。

「あ……うん、それで、今日ってホワイトデーじゃない。バレンタインデーのお返しあげる日」
ホワイトデーになった途端、今朝まで元気はつらつだった氷河が疲労困憊男になったのか? と星矢と紫龍は訝った。しかし、彼等のその疑念はすぐに霧散した。あの氷河の上に、そんな喜ばしい事態が訪れるはずがない。
「プレゼントのことで悩んでいるのか? だとしたら、俺たちには、バレンタインの時と同じことしか言ってやれないぞ。おまえの贈るものなら、氷河はどんなものでも喜ぶだろうとしか……」
「そんなこと、わかってるよっ! プレゼントはもう決めてあるのっ!!」
耐え難きを耐え忍び難きを忍んでの紫龍の助言に対する瞬の対応は、随分随分随分なものだった。
「じゃあ、なんなんだよぉ〜〜;;」
星矢が相変わらず瞳に涙をにじませて、情けない口調で瞬に問いただす。
瞬はまるで自分に苛立ったような怒声で、星矢を怒鳴りつけた。
「渡し方がわからないのっっ!!」
「へ…?」
「渡し方がわからない…?」
瞬の言葉の意味するところを、星矢と紫龍が即座に汲み取ることができなかったとしても、それは彼等の言語理解能力が余人に劣っているということにはならないだろう。渡し方のわからないプレゼントなどという代物は、お釈迦様にも神様にも想像し難いものである。

「な…何を贈るつもりなんだよ、瞬、おまえ、氷河に」
『征服し終えた地球を』と言われたところで、星矢たちは驚きもしなかったろう。この地上の全ての事共が瞬のものなのだということくらい、既に彼等は知っていた。
「そんなの、決まってるじゃない……。バレンタインの時、僕は氷河に氷河をいっぱい貰ったんだから、今日は僕が僕を氷河にいっぱいあげるんだよ」
恥ずかしそうに頬を染める瞬は、今日も谷間の白百合のごとく清楚かつ可憐である。
「ああ、おまえがおまえを氷河にいっぱ……」
瞬の羞恥心が、実は一般人とはどこか何かが異なっていることを承知している紫龍は、今更瞬に何を言われたところで驚くには当たらない――程度の気持ちで、瞬の言葉をそのまま無気力に反復した。反復しかけた。
その時点で、彼は、まだまだ人生の苦悩の深淵を見極めていなかったということになる。
そして、彼は、突然、深淵の底に墜落した。
つまり、彼は、瞬のプレゼントの意味を理解してしまったのである。

「う…うわあぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜っっっっっ!!!!!!!!!!」

城戸邸のラウンジに龍星座の聖闘士の絶叫が響く。それは、黄泉比良坂を転がり落ちるのがなんぼのもんじゃい状態の、悲痛・悲惨・悲壮を極めた哀れな叫び声だった。絶叫と共に、彼はやっと数日前に補修工事が終わったばかりのラウンジの壁を突き抜けて、今回は隣りの客間と玄関ホールとを続き部屋にしてしまった。
もちろん、友情に厚い星矢も、紫龍に付き合って瓦礫の下のお友達になる。
それは冷静に考えれば不思議でもなんでもないことだった。不思議でもなんでもないことではあるが、それでも、キャラクターにはそれぞれのイメージというものがある。

(しゅ…しゅ…瞬が上〜〜〜〜〜〜っっっっっ!!!!!?????)

数十メートル先のラウンジのソファにちょこんと鎮座ましましている瞬を、星矢と紫龍は、神か悪魔に対峙する恐怖以上の恐怖をもって、瓦礫の下から仰ぎ見た。
生死を共にしてきた仲間たちの訳のわからない暴走に、小さな鉢植えのタンポポは、大きな瞳を見開いて可愛らしく首をかしげている。
無邪気この上ない瞬を見ている苦痛に耐えきれず、星矢と紫龍は、自らの精神の平穏を保つための逃避行動に出た。
つまり、彼等は、氷河に救いを求めるという愚行に及んだのである。
それでも、まともに瞬の相手をしているよりはまだマシだろうと、彼等は考えたのだった。
「ひ…氷河っっ!! 氷河はどこだっ!? また廊下かっ!?」
「自分の身の一大事だってのに、なに呑気に瞬のお目々の言うことなんかきいてやがるんだよ、あのむっつりはっっ!!!!」
あたふた瓦礫を掻き分けながら、星矢と紫龍が、その場にいない白鳥座の聖闘士を罵倒する。
どかしきれない瓦礫に埋もれたまま、星矢はラウンジと廊下とを隔てている壁に向かってペガサス流星拳をお見舞いした。
多分、彼はあまりの恐怖に冷静な判断力を失っていたのだろう。ここまで壁を破壊してしまったら、二階部分が落ちてくるのではないかなどということを考えることもできないほどに。

星矢と紫龍の推察通り、破壊された壁の向こうには、無愛想な白鳥座の聖闘士が、瞬のお呼びを待ちかねている様子で立っていた。
彼は突然目の前で崩れ落ちた壁には動じた様子も見せなかったが、そのために自分の視界に入ってきた瞬の姿には瞳を輝かせた。もちろん、瞬の命令に絶対服従の彼は、次の行動を起こすのにも瞬の命令をその場で神妙に待ったが。
「あ、氷河。入ってきていいよ。星矢と紫龍が呼んでるから、お話、聞いてあげて?」
それは、氷河にはあまり嬉しい命令ではなかったようだが、彼は瞬の言うことには素直に服した。瓦礫に埋もれている星矢と紫龍に興味なさそうな視線を向け、瓦礫の山に歩み寄る。救助の手を差し延べもせず、彼は、星矢と紫龍を無言で見下ろした。
『何だ?』の一言すら口にしないで。
仲間の窮状に同情の色すら示さない男の身を案じる筋合いもない星矢たちだったのだが、それが自分たちの精神の安定を守ることにつながるとあれば、ここは黙ってはいられない。
瓦礫の下から、星矢は悲痛な声で氷河に訴えた。
「氷河っ! おまえ、なにそんな偉そうに構えてやがるんだよっ! 瞬がおまえにどんなホワイトデーのプレゼントやろうとしてるのか知ってんのかっ!?  おまえを押し倒そうとしてるんだぞっ。おまえ、瞬をいっぱいもらって喜べるのかっ!? それで平気なのかよっっ!!!???」

氷河は、瞬のプレゼントの話は初耳だったらしい。
偉そうに星矢と紫龍を見下ろしたまま、彼は眉をぴくりと微動させた。
そして、ゆっくりと瞬を振り返る。
その視線を受け止めたのは、ソファから立ちあがった瞬の切なげな眼差しだった。
「だ…だって、いっつも僕ばっかり氷河をもらっていい気持ちになってたら、それって不公平でしょ。良くないことでしょ。だから、僕、今日くらいは…って思ったんだもの…!」
「…………」
瞬の認識は根本的に間違っている。
それは、氷河にとっては都合のいい間違いだったろうが、だからといって、この誤りを正さないでいると、彼は今日瞬からとんでもないプレゼントを受け取ることになる。
このシリーズ始まって以来の大ピンチを、果たして氷河はいかなる方法で切り抜けるのか――。星矢と紫龍は、氷河の次なる行動を固唾を飲んで見守ることになったのである(案外呑気だね)

氷河の行動は、迅速だった。
彼は、星矢と紫龍に後ろ足で砂を掛けるようにして瓦礫の山に背を向けると、悩める瞬の許に急ぎ足で駆け寄った。
そして、切なげに震える瞬の肩を抱き、本日の第一声を発する。
「瞬……」
それは、気持ち悪さに背筋がぞわぞわする程、優しい声音だった。
星矢と紫龍は、氷河に優しい言葉をかけてもらうくらいなら、一生を瓦礫の下で暮らす方がマシだと、真剣に思ったのである。
が、星矢と紫龍のご意見ご感想など、もちろん氷河にとってはゾウリ虫の屁ほどの意味も価値もない。
彼は、不安と恋心に震える瞬をまっすぐに見詰め、そのぞわぞわする声で、瞬説得に乗り出したのである。
「俺はおまえの言うことなら何でもきくし、おまえの望むことならどんなことでも叶えてやると言っただろう。それが俺の望みで俺の幸福なのだとも」
「だ…だって……。だって、どう考えたって不公平でしょ。僕ばっかり、いつも、あんな……」
口ごもった瞬の目許が桜色に染まる。瞼を伏せると、瞬は、蚊の鳴くような小さな声で言葉の先を継いだ。
「その……いい気持ちになっちゃって……」
「そうか。それは良かった」
瓦礫の下の星矢と紫龍からは遠すぎて確認のしようもなかったが、瞬のその言葉に氷河の青い瞳が満足げに輝いたのだろうことは疑いようもない。
ただ、瞼を伏せてしまっていた瞬には、その輝きを見てとることはできなかったのだろう。氷河の思いやりに満ちた言葉に(瞬にはそう聞こえるのである)瞬の声と肩は、一層切なさに震えることになった。
「僕もっ! 僕も、氷河をあんなふうにしてあげたいの! そしたら、氷河、きっと今よりずっともっと幸せな気持ちになれるよ!」
自信に満ちて断言する瞬を、氷河がどういう表情で受け止めたのかは、星矢と紫龍にはわからない。だが、人の幸福も価値観も人それぞれだということに気付いていない瞬の誤りを、氷河が正そうとしなかったのだけは事実だった。
まあ、当然ではある。
「瞬」
氷河は左右に軽く首を振った。
そして、いかにも分別に満ち満ちた(ように聞こえる)口調で、諭すように瞬に尋ねた。
「たとえば、星矢や紫龍がおまえに相談事を持ちかけてきて、おまえが奴等の悩みを解決してやったとしたら、その時、おまえは奴等に返礼を求めるか?」
例え話にしても、随分な例えである。
そんな事態が、かつて一度でもあっただろうか。逆のパターンなら、星矢と紫龍は思い出したくないほど多くの経験を積んでいたが。
「そんなこと…! だって、星矢と紫龍がそれで喜んでくれたら、僕、それだけで嬉しいもの! お礼なんかされたら、かえって居心地悪くなっちゃうよ!」
そう思うなら、早くこの瓦礫の山を取り除いてくれ〜〜〜〜っっ!!!! という星矢たちの叫びは、もちろん瞬の耳には聞こえていない。
当然、氷河の耳にも、である。
「俺も同じだ」
氷河の教え諭すような言葉に、瞬は説得させられかけていた。これほど実際の行動に即していない言葉もあるまいと思われる氷河の説得は、だが、見事に理路整然、星矢にも紫龍にも異議を申し立てる隙を見つけだすことはできなかった。
理屈の上では、確かに正しいのである。間違ってはいないのである。
だが――。
瓦礫の下の友人に救いの手を差し延べもしない男に、そんなセリフは言ってほしくない――というのが、星矢と紫龍の偽らざる気持ちだった。
「……わかるけど……氷河の言うこと、わかるけど……!」
切なげに眉根を寄せて氷河を見あげる瞬を、言動不一致男が無言で見降ろす。
氷河に、その青い瞳で見詰められ、瞬はやがて大人しくなった。
それ以上の反駁は、瞬には思いつかなかったらしい。
「でも、氷河はほんとにそれでいいの……」
「それが俺の望みだ」
「……」
瞬は感動に(!)潤んだ瞳で氷河を見詰め、それからゆっくりと顔を伏せた。
「うん……」

詭弁・屁理屈・理外の理。
欺瞞・瞞着・詐欺・詐術。
氷河の言葉に真実の響きはひとかけらもないというのに、恐ろしいほど感動的な場面が、星矢と紫龍の眼前に繰り広げられていた。
星矢と紫龍もまた、胸糞が悪くなって、はらわたが煮えくり返るほど深い感動を、瓦礫の下で享受していたのである。

氷河が普段無口な訳が、彼等には今初めてわかったのだった。
彼が喋れるのに喋らない訳が。
つまり、氷河は、瞬に嘘をつきたくないのだ。
これだけ白々しく詭弁を弄することのできる男なら、そう考えるのも当然のことだろう。
瞬に対してできるだけ誠実でいたいというズルさ――が、氷河という男を無口にしているのだ。
瓦礫の下で星矢と紫龍が味わっている感動は、極めて複雑怪奇骨折な感動ではあった。

「瞬?」
それでも感動は感動である。それなりに氷河という男を理解しかけていた星矢と紫龍の前に展開され始めた次なる場面は、であるからして、"感動"という言葉の意味さえも無味乾燥なものにしてしまうような代物だった。
氷河が、俯いている瞬の顎をすくい上げ、その視線を視線で捉える。
その視線の求めるところに気付くと、瞬はポッと頬に紅を散らした。
「あ、じゃ、星矢、紫龍。僕たち、しばらく僕の部屋に引っ込むから、またあとでね。ありがと、相談にのってくれて」
結局、落ちはそれかいっっっ!!!!!! と突っ込む力は、星矢にも紫龍にも残ってはいなかった。
彼等は、いー加減、この落ちに慣れてしまっていたのである。
これまでに味合わされてきた数々の苦難が、これ以外の落ちを作者に求めることは無理無体なのだという現実を寛大な気持ちで受け入れられるほどに、彼等をオトナにしていたのだ。
目覚しい成長を果たした今の彼等には、正直なのはその瞳だけの男に、瓦礫の下で同情を覚えるゆとりすらあった。


かくしてアテナの聖闘士たちは強くたくましく変貌していくのである。
エキセントリックかつ非常識な世界に向かって――。 





Fin and Happy White Day !







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