その日は、その後も、シュールな出来事が多発した。

あの一輝が、あの氷河に、ドアを開けてやったり、読んでいた新聞を貸してやったりするのである。

些細なこと――確かに、冷静になって考えてみれば、それは極々些細な“小さな親切”なのだが、それを見せられる星矢や紫龍は、はっきり言って、狂人の夢の中にいる気分だった。


氷河への兄の親切を見せられるたび、瞬は素直に喜んだが、氷河の方は針のムシロに座らされている思いである。

居心地の悪さは、星矢も紫龍も変わらない。
一輝の親切の訳が理解できず、理解できないことが気持ち悪くて仕方がない。

その気持ち悪さに最初に耐えきれなくなったのは、B型大らか主人公であるところの、天馬座の聖闘士だった。



瞬が三時のおやつの準備のために席をはずしたのを幸い、早速自分の疑念を一輝にぶつける。
「一輝ー。いったいどーしたってゆーんだよ? 氷河はさー、おまえの大事な瞬をかっさらってった超々々々極悪人だぜ? その氷河に親切になんかしてやることないじゃん。そんなの変だぜー」

星矢に問われた一輝が、無表情かつ無愛想かつ居心地悪そうに肘掛け椅子に腰をおろしている氷河にちらりと一瞥をくれる。

それから、彼は、
「今日は6月4日だからな」
と、答えともいえない答えを星矢に返してきた。

当然、星矢が、それで一輝の真意を理解できるはずがない。

「虫歯予防デーだってのは聞いたけどさー、それと氷河への対応は別物だろ。だいいち、瞬を食って虫歯になるんなら、氷河はとうの昔に総入れ歯だぜ」

それは、星矢にしては――星矢にしては、である――実に論理的な意見だった。

残念ながら、一輝は、星矢のその論理的な意見に、にこりともしなかったが。
その代わりに彼は、星矢たちの前で、彼の理論を展開し始めた。


「6月4日は虫の日でもある」

「へ……?」

一輝の言葉の意味がわからず、きょとんとする星矢の横から、紫龍が、一輝の言葉を反復する形で尋ね返す。

「虫の日?」

一輝は、肘掛け椅子の氷河を見下すように頷き、その顎で氷河を指し示した。
「虫だろう。そいつは。瞬についたタチの悪い害虫だ」


氷河が、その言葉の内容というよりは、一輝の傲然とした態度と口調にぴくりと反応する。


「だから、立ててやったんだ。虫の日だからな。年に一度の父の日に、普段は放っぽっているグータラ父親を立ててやるのと同じ理屈だ」


「…………」
「…………」


一輝の口調は、全く激したものではなかった。
だが、初めて明確に、しかも半端でなく激烈に、一輝の憤怒を見せつけられて、星矢と紫龍は思わず絶句してしまったのである。

親切どころではない。
一輝は、氷河を、かーいー弟についた悪い虫と断じ、無味無臭の殺虫剤を振り撒いていただけだったのだ。


「あ…ああ、虫ねー」
「じ…実に全くその通りだ」


一輝の迫力に気おされながらも、星矢と紫龍が納得する。
彼等の辞書には、氷河への友情などという単語は載っていなかった。


「ふん。アブラ虫やゴキブリの方がまだマシだ。瞬を食い散らかす下品な虫が、生意気に生きて動いていて、人間様と同じ空気で呼吸までしているんだからな。全く、世の中は理解できん構造になっている」


「…………」

氷河は――氷河は、そこまで言われても無言だった。
彼は別に構わなかったのである。
人格すら認められずに虫扱いされようと、悪党呼ばわりされようと、それが瞬以外の人間の口から出た言葉なのなら。
彼の世界には、瞬以外に、意味のある言葉を口にできる人間は存在していなかった。


しかし――不快ではある。
自分を虫扱いしている傲慢な男が、瞬に深く慕われているという事実が。

その事実が、氷河には不快でたまらなかった。


それ以上その場にいたら、一輝を殴り倒してしまいそうになる自分自身を、それでも、氷河は必死になって抑え続けた。


自制するための最善の方法はわかっていた。
この場から立ち去ればいいのである。

しかし。


まもなく、三時のおやつ用のケーキを持って、瞬がこのラウンジに戻ってくるだろう。その時に、自分がここにいないのはマズい。
そう考えて、氷河は、自分の内で大きな渦を巻いている不快感に根性で耐え続けたのである。



一輝にも、氷河の考えは手に取るようにわかっていた。
瞬でない人間の軽蔑など、氷河には少しもこたえていないということも、瞬のために、氷河が瞬の兄への攻撃心を耐え抜くだろうということも。

耐えられるのだ、氷河には。
彼は、瞬の心と身体とを、その手中に収めているのだから。

その事実が、一輝もまた不快でたまらなかった。



彼はラウンジ備え付けのコーヒーサーバーからカップにコーヒーを注ぐと、それを、不自然なほど自然に友好的な態度で、氷河に手渡した。

「ま、そういうわけだ。毒は入っていないぞ」


氷河が、これまた不自然なほど自然な動作で、そのカップを受け取る。
一輝の真意がわかれば、一輝の嫌味な親切もそう不気味ではない。

礼も言わずに、氷河はそのカップのコーヒーを口に含み、そして――。


そして、ぶわっと吹き出した。





一輝のいれたコーヒーには、確かに毒は入っていなかった。

だが、超多量の醤油は入っていたのである。






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