さて、そういうわけで、いつになく真剣に苦悩している氷河の前に、やってきたのはB型大らか主人公である。

「あっれー、紫龍、楽しそうじゃん。なんかいいことでもあったのか?」
事情を知らない大らか主人公は、今日も肩書き通り大らか、かつ呑気である。

「いや、恋するオトコが悩んでいる姿は実に美しいと思ってな」

紫龍の言葉を受けた星矢が、紫龍とは対照的に業腹の極みといった面持ちの氷河をちらりと一瞥する。

「ありゃりゃ。紫龍も氷河いじめが上手くなってきたじゃん。いやー、人間、努力はしてみるもんだなー。信じて貫けば夢は必ず叶うって、ほんとなのかもしれないな。おい、氷河、大丈夫かー?」

「…………」

紫龍の“夢”がどんなものなのかは知らないが、そんなことはこの際どーでもいい。
自分の力だけでは現状打破が困難なことを悟った氷河は、非常に不本意ながら、ご都合主義的登場を果たした単純明快主人公の手を借りることにしたのである。
なにしろ、今は、不本意だとか、不愉快だとか、そんな自分の感情にこだわっていい事態ではないのだ。



「星矢」

抑揚のない声で、氷河は大らか主人公の名を呼んだ。

呼ばれた星矢が、ぽこっと顔をあげる。
星矢は、氷河のその声音に妙な違和感を感じていた。
遅れてご登場の星矢は当然のことながら知りようもなかったが、実は、それは、氷河の本日の第一声だった。星矢がそれを知っていたなら、彼は違和感を覚えるどころでは済まなかっただろう。

が、ともかく、その事実を知らなくても、星矢は驚いた。
なにしろ氷河が――あの氷河が――瞬以外の人間に自分から、しかも罵倒、面罵、悪罵、冷罵、誹謗、嘲笑、中傷、激怒等々のついでではなく、声をかけてきたのだから。

星矢の驚きをよそに、氷河は言葉を続けた。

「瞬が、このバカにくだらないことを言われたせいで、俺の部屋に閉じこもってしまったんだ。俺が行っても入れてくれない。すまないが、瞬を俺のところに連れてきてくれないか」

「…………」

恐ろしくマトモな日本語である。
丁寧と言ってもいいような日本語。
へりくだっていると表現しても差し支えないような日本語だった。

星矢は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になってしまったのである。

瞬のためになら、瞬以外の人間に対しても、氷河はマトモな日本語を使うことができるらしい。
意外なようで当然の事実ではあったが、しかし、とにかく物事にこだわらないのが売りの大らか主人公は、氷河の頼みを至極気楽に引き受けた。

「そりゃ全然構わねーけどさー。紫龍、おまえ、何言ったんだよ?」

その日口にした言葉の数を数えるのも容易な氷河に、ちゃんとした“説明”ができるとも思えなかった星矢は、氷河にではなく、紫龍に説明を求めた。

「いや、そう大したことを言ったつもりはないんだが」

白々しくそう言ってのける紫龍をぎろっ☆と睨んで、氷河が事の次第を話し始める。
なんと、それも、ちゃんとした日本語である。
話している内容のくだらなさはともかくも、その経緯だけは理路整然とわかりやすい。
氷河のものとも思えない流暢な日本語に、星矢はあっけにとられてしまった。



ともかく、そうして事情を把握した星矢は、しかし、この憂うべき事態を憂う気配も見せなかった。なぜなら、星矢にとってそれは、憂うべき事態でも何でもない、痴話喧嘩にすらなっていない、ただののろけだったのだ。

「うーん、紫龍も最近、頑張ってるんだけどなー(何をだ)。んでも、瞬を落ち込ませるのはよくねーと思うぜー。いぢめるんなら、氷河だけにしとけよ」

言われて、紫龍が大仰に肩をすくめる。
紫龍とて、そうしたいのは山々なのだが、そうは言っても、氷河をいじめようと思ったら、瞬との離隔を企てるのが最も効果的かつ容易だということは火を見るより明らかではないか。


「ふへー、それにしても、すげーな、氷河。おまえ、瞬以外の相手にもちゃんと日本語話せたんだなー。瞬を口説く時以外は、怒鳴り声あげるしか能がないんだとばかり思ってたぜ、俺、おまえのこと」

星矢の認識は間違いではない。
事実、言うべきことを言い終えた氷河は、もう、平生の無口・無表情・無愛想男に戻っていた。

瞬のためだから、ちゃんと“言葉”を使って、したくもない説明をしたのだ。
瞬のためでなかったら、こんな疲れることは二度とするつもりもない氷河だった。







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