いつも通り二人揃ってダイニングルームに下りていった氷河と瞬を迎えたのは、今日も上機嫌そのものの紫龍、今日も食欲旺盛な星矢、そして、今日も仏頂面の瞬の兄、だった。

瞬と氷河の登場に気付くなり、紫龍が、『おはよう』の代わりに定例の朝の挨拶を投げてくる。

「瞬! 今日は何の日か知ってるか」
「もう、紫龍まで。それくらい知ってます! 勤労感謝の日でしょ」
「それだけじゃないんだ」
「え?」

○○の日のたびにいちいち大騒ぎを起こす紫龍や氷河と付き合っているのである。記念日オタクではない瞬も、この日本という国が“毎日が記念日”状態にあることや、各種団体・各地方自治体が苦しい語呂合わせで色々な記念日を作りまくっていることは、さすがに知っていた。

(11月23日で、何か語呂合わせができるかな……?)
――と、考え込み始めた瞬を見て、慌てたのは氷河である。
今日が何の日なのか、瞬にだけは――瞬にだけは、知られてはならない。

「実は今日は――」

得意満面、楽しそうに『今日の日』の説明を始めようとした紫龍を、氷河は大声で遮った。

「き…今日は、『いいふみの日』なんだ。瞬、手紙を書こう!」
「え? て…手紙って、誰に?」

突然何を言い出したのかと瞳を見開いた瞬に、しかし、氷河はたじろがない。ここで常識だの良識だのに捕らわれて、躊躇するのはバカである。そして、氷河は、恐ろしいことに、自分がバカだという認識を持ってはいなかった。

「一輝! 貴様、どこぞへ放浪しに行け。瞬がそこに手紙を出す!」
己れの幸福を守るために、お利巧な氷河は必死だった。

が、氷河の幸せなど、一輝には、ゴキブリの屍骸の右触角の繊毛ほどの価値もない。彼は当然のことながら、氷河がそんなことを言い出した理由も尋ねずに、氷河の“命令”を言下に拒絶した。
「貴様に指図される覚えはない。だいいち、俺をここに連れてきたのは貴様だぞ」

「…………」

そーなのである。
できれば、死ぬまでケータイの電波も届かない秘境・魔境で一生を過ごしていてほしい一輝をここに連れてきてしまったのは、何を隠そう――隠しようもないが――氷河自身なのである。紫龍の謀略にハマったせいとはいえ、愛する瞬のためだったとはいえ、確かに、一輝をここに連れてきたのは、他の誰でもない氷河自身だった。

先月の自分の浅はかな行動を思い出して憮然となった氷河に、瞬がにこやかに微笑みかけてくる。
「手紙は別に遠くの人に出すものじゃないでしょ。ここにいる人に書いて手渡したって、立派な手紙だよね。兄さんに嘆願書でも出そうかな。『ずっとここにいてください』って」

「…………」

そんな手紙など出されてしまってはたまらない。
氷河は、『いいふみの日』を口実にしての危険回避は諦めることにした。
そして、第二案を口にした。
「今日は『外食の日』でもあるそうだ。二人で、どこかに食事に行こう」

危険を恐れる氷河の気持ちを知らない瞬は、残念ながら、氷河のその提案も受け入れてはくれなかった。
「それは駄目。今日のメニューはね、お昼が栗尽くしで、夜がキノコ尽くしなんだって。厨房のおじさんたちに、腕を振るうから楽しみにしててって言われたの。お昼のデザートはモンブランとマロンタルトで、夜のデザートは、キノコの形をした大きな洋ナシのパイなんだって♪」

「…………」

駄目である。ケーキの話が出たら、瞬を動かすことはまずできない。
氷河は、次なる案を提示せざるを得なかった。

「今日は『手袋の日』でもあるらしい。冬に備えて、新しい手袋を買いに行こう」

この提案には、瞬は少し拗ねた顔になった。
「僕、夕べ、氷河に、僕の新しい手袋見せてあげたじゃない!」
僅かに頬を膨らませてそう言った瞬は、しかし、すぐに、その口許に笑みを刻んだ。

「今年の僕の手袋はね、紫龍のお手製なんだ。可愛い若草色のミトンをね、紫龍が編んでくれたんだよ」
瞬の説明は、そのことを既に知っている氷河にではなく、兄と星矢に向けられたものだった。
が、それは、一輝や星矢よりも、氷河の役に立ったのである。
瞬の言葉は、氷河がすっかり忘れてしまっていたことを、彼に思い出させてくれたのだ。

昨夜、嬉しそうに、紫龍に貰ったという手袋をはめて見せてくれた瞬。
その手袋を外した時の瞬の手の方にくらくらしてしまった氷河は、その手を握りしめ、そのままよからぬことに雪崩れ込んでいったのだが。

なぜ、そんな重要なことを忘れていられたのだろう。
今なら、氷河にもわかった。
紫龍が手製の手袋などを瞬に贈った、その訳が。
それは、11月23日に、氷河の逃げ道をふさぐためだったのだ。

しかし、氷河も、そこで挫けるような男ではない。
彼は食い下がった。
「今日は『Jリーグの日』だそうだ、サッカー観戦に行こう! J1リーグのセカンド・ステージも大詰めだそうじゃないか」

ここまで言われれば、氷河が何かを隠そうとしているのだということは、さすがに瞬にもわかってくる。
「急にそんなこと言ったって……。だいいち、氷河、チケット持ってるの?」

「う……」
Jリーグ観戦など、たった今弾みで口にした思いつきである。
氷河の手許にそんなものがあるはずがない。
というより、それ以前に、氷河はサッカーというものに――否、スポーツ全般に――興味がなかったのだ。

聖闘士から見たら、児戯にも等しい、そのゲーム。
サッカーなどを観戦してると、何故あのゴールキーパーはそのまま敵方のゴールにボールを蹴り入れてしまわないのかと、氷河はイライラしてくるのだった。



かくして、氷河は追い詰められた。
溺れる者は藁をも掴む。
氷河の掴んだ藁は、超とんでもない藁だった。

すなわち、
「『勤労感謝の日』なんだから、二人でどこかに働きに出よう!」
――という“藁”。


「…………」

――瞬は寛大である。
氷河のどれほど無茶な行為も、すべては善意から出たことと考え、大抵は許していた。
しかし、瞬にも常識はあり、世間一般で通用するような判断力も、彼はちゃんと備えている。
氷河に“聖闘士”と“瞬の恋人”以外の仕事ができそうにないことは、瞬は、以前から、薄々気付いていた。

氷河の提案は、瞬の判断力で判断すれば、どう考えても――考えるまでもなく――スーパースペシャル完全NG。
故に、瞬は、その提案を聞いて目を剥いた。


そこに、氷河の狼狽ぶりを実に嬉しそうに眺めていた紫龍が、穏やかな声音で皮肉に告げる。
「氷河。今日はおまえ、妙に口数が多くないか? この5分で、もう普段の3ヶ月分は喋っているぞ」

氷河は、紫龍の突っ込みにぎくりと身体を強張らせた。


そして、

「氷河、こっち向いて」

瞬の命令で、顔面蒼白になった。








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