「氷河……」

薔薇の香りが終わる前に、瞬は氷河の腕の中で意識を取り戻した。

誰よりも知られたくない人に、隠していた秘密が知れてしまったのだということを察したのか、瞬の瞳に一瞬怯えが走る。


「何もなかった。忘れろ」

今はとても告げられなかった。
アフロディーテの死も、彼の死の意味も。

「氷河、僕、汚れちゃったの」
泣きそうな目をして、瞬が小さく呟く。

「どこがだ?」

その腕の中に瞬がいてくれるなら、氷河はそれ以上何も望むことはなかった。
微笑さえ浮かべて、氷河は、からかうように瞬に尋ねた。
答えることのできない問いに、瞬が眉根を辛そうに寄せる。

「みんな……。全部」
「そんなはずはない」

氷河の声音が穏やかなのが、かえって、瞬を不安にしてしまっているようだった。

「でも、ほんとなの。僕は、自分の気持ちを裏切って、氷河の気持ちを裏切って、思いあがって、アフロディーテを救えるような気になって、その罰を受けたの。そんなことできるはずがなかったのに……。僕なんかが、誰かを救うことなんてできるはずがなかったのに……!」

「おまえは、俺を救ってくれた」

氷河は、そう告げて、瞬を抱いている腕に力を込めた。



「――でも、僕、汚れちゃったの」

瞬が、はっきりと言葉にできないことなど、氷河は気にかけるつもりはなかった。
もしかしたら、この先、瞬の身体と心とを無垢でなくした男に嫉妬することはあるかもしれないという不安は拭い去れなかったが、それでも。

「大丈夫。俺がおまえを元のおまえに――いや、もっと綺麗にしてやるから」

自信など、無論、ない。
アフロディーテの真実の気持ちすら、氷河は、彼に言われるまでわからなかった。
自分がどれほど恵まれた男なのかも、知らずにいた。

「今度は俺が――おまえの心を癒してみせるから」


だが、試してみるしかないではないか。

成し遂げられるとわかっていることを実行するのは、ただの行為に過ぎない。


成し遂げられないかもしれないことに挑むことこそが、“生きる”ということなのだから。






Fin.





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