「何を恐れている? この私に食ってかかったアテナの聖闘士が」

綺麗に身仕舞いを整えられた犠牲者の姿を見やるアベルの物腰は、相変わらず当たりの優しいものだった。

「とって食らうわけではない。そう萎縮していては、私も楽しめないではないか」

穏やかな声と、やわらかな仕草。
それがもともと彼に備わっているものなのか、彼が犠牲者に対して絶対的に有利な立場にいるという余裕から生まれてくるものなのか、瞬には判じかねた。

アテナの聖闘士として彼に対峙していた時には全く感じなかった恐れに、今の瞬は支配されていた。


「さ……沙織さん……アテナと星矢たちは……」
「ああ、丁重にサンクチュアリにお戻り願った。――運ばせた」
「ほんとに……?」

太陽神の結界が張られた太陽神殿では、星矢たちの小宇宙を感じることはできない。
神を疑う子供に、彼は少し不快を覚えたようだった。
彼がその不快を言葉にも態度にも表さなかったのは、瞬の声がおどおどと力なく、小さく震えてさえいるのを認めたからだったろう。
哀れな子羊は、神の約束を疑っているのではなく、ただやがて訪れるその時を少しでも先延ばしにしたいと足掻いているだけなのだと。

「では一瞬だけ」

アベルはそう言って、太陽神殿を取り巻いている彼の結界を解いてみせた。
途端に、瞬の身体は、懐かしい小宇宙を感じ取ることができた。

アテナと星矢と紫龍と兄と氷河。
生きている。
彼等が生きているのがわかった。

「ああ…!」
安堵の吐息が声になる。

「私は、薄汚い人間たちと違って、嘘などつかぬ」
瞬を取り巻く優しい小宇宙の感触が、アベルの言葉と共に霧散する。

「君にも、約束を守ってもらうぞ」

切なげに落胆の表情を浮かべた瞬に、彼はゆっくりと歩み寄ってきた。
瞬が、唇を噛み締めて神を睨みつける。
が、その気力も長くは続かなかった。

「怯えるなと言っても、無理な相談か?」
その声の響きは優しい。
ひどく楽しそうでもあった。

「十二宮の黄金聖闘士たちを倒してみせたアテナの聖闘士が、これはまた、呆れるほど可愛らしいな」
身体の震えを止められずにいる瞬に、からかいの言葉をかけ、アベルは、まるで包み込むように両の腕でふわりと瞬を抱きしめた。

「ゼウスとアポロンにこの身を封じられてから数千年ぶりに得た身体の覚える欲望がどれほどのものなのか、私自身にもわからないのだが」
にこやかにそう告げると、アベルは表情を一変させた。

瞬は、彼の豹変に驚く間さえ持てなかった。








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