悪夢の宮から聖域に戻ってきて数日間、氷河は誰とも口をきかず、誰にも会おうとはしなかった。 地上の平和と安寧。 それがどれほど大切なものなのかは知っている。 それを危険にさらしてまで瞬を取り戻そうとすることは、聖闘士としても人間としても許されないことなのではないかと、数日間、氷河は考えた。 そして――。 「沙織さん。俺は瞬を取り戻したい」 氷河はアテナに告げたのである。 「今のままでいれば、あなたの大切な平和を保っていられることはわかっている。だが、それでも、俺は、瞬を取り戻したい。瞬が俺たちの犠牲になることはない。なってはいけないと思う」 氷河は、どうしても、それが許されない罪だとは思えなかった。 「そんな平和は間違っている」 「ええ、そうね」 沙織は──アテナは──静かに頷いた。 だから、氷河は、彼女をなら──彼女という神をなら──信じてもいいと思ったのである。 「アベルを殺すことに意味はあるのか」 「時を……その時が来るのを、先に延ばすことはできるわ。神といえども、現代の神は、神酒やアンブロシアを食していた頃の不死の神ではなく、肉体は人間と変わりありません。今の肉体が滅びたら、次の無辜なる肉体に宿り、神の力をふるえるほどに成人するまでには時間がかかります」 淡々と、氷河の問いに答える沙織に、氷河は罪悪感を──否、悲愴感を──覚えた。 「すまない。あなたの兄だ」 「いいえ。私が負わなければならない重荷を、瞬に負わせるわけにはいかないわ」 アテナの寂しい微笑を、氷河は遮った。 「それは違う。この重荷を負うべきは、瞬でもあなたでもない。負うべきは――」 負うべきなのは、氷河自身だった。 瞬を救い出せずにいる無力な人間たち全てなのだ。 「それは、今、この地上に生きている全ての人間が負うべきものだ。その上で手に入れた平和でないなら、その平和に意味はない。すぐに壊されてしまう脆弱な――幻だ」 瞬を救うことは、真の平和を手に入れることなのだと、今の氷河は思っていた。 「時を稼ぐことにしかならなくても……」 なぜか、氷河にはアベルを倒す自信があった。 あの神は、今はただの男に過ぎないという確信があった。 「アベルを倒したら、その時には、今度こそ、人間たちにその“時”を託す」 それが、氷河の辿り着いた、最善の──そして、唯一の──答えだった。 「すみません。俺がアベルを倒したいのは、ただの私怨かもしれない。瞬を──俺から奪った男への、ただの嫉妬なのかも」 氷河の言葉に、アテナは横に首を振った。 「そんなふうには見えないわ。今のあなたの小宇宙は、そんな小宇宙ではないわ。強くて、大きくて、しいて言うなら、それは瞬への――」 沙織が、言葉を途切らせる。 両の肩をすくめて、彼女は明るく笑った。 「陳腐だから言わない。わかってるんでしょう」 ──人の心を持った神。 人の心を知っているからこそ、神は、人にとっての神たりえるのだ。 |