「紫龍?」

星矢がラウンジを出ていくと、瞬が尋ねる相手は紫龍しかいなかった。

「あ、いや……。星矢と、氷河の我儘の話をしていたんだ」

慌ててその場を取り繕った紫龍に、瞬は大きく頷いてみせた。
「そうだよねぇ。ほんと、氷河ってば、駄々っ子みたいなんだから」

瞬の口振りは、小学校の担任教師に我が子の腕白ぶりを嘆く母親のそれのようだった。

教育者らしからぬ長い髪をした担任教師が、母親の嘆きに同調するでもなく、カウンセラーの口調でもって尋ね返す。
「……星矢の言った通りなのか」
「え?」
「氷河が……強引に迫ったのか?」

瞬は、氷河の母親ではない。
紫龍も、氷河の担任教師ではない。

「強引ってことは――」
「しかし、奴のことだから」

センターテーブルを挟んで、紫龍の掛けているソファの真向かいの椅子に腰を下ろした瞬は、生死を共にした闘いを闘ってきた仲間同士の気安さで、その時の事情を、紫龍に語りだした。

「んーと、最初はね。手相を見てくれるって言ったの」
「手相?」
瞬の口から思いがけない単語が飛び出てきたのに、一瞬、紫龍は虚を突かれた顔になった。

「そう。手相。でね、僕の手をとって、黙ってじっと見ててね」
その時のことを思い出したのか、瞬が、くすくすと含むような笑い声を漏らす。

「『おまえは、今、目の前にいる相手と結ばれないと、不幸になる』って、真面目な顔して言ったんだよ、氷河ってば。笑っちゃうでしょ」

「…………」
氷河の『強引』のあまりの馬鹿馬鹿しさに、紫龍は呆けていた。

そんな子供じみた手で――まさに、“手”で――、氷河は、この瞬を自分のものにしてしまったというのだろうか。

そんなにも簡単に――おそらくは、瞬に恋を告白した最初の人間だったというだけで――、氷河は瞬を手に入れた――のだ。

顔の前でひらひらと右の手を振ってみせる瞬の腕で、氷河のつけた赤い痣が、紫龍を嘲笑している。

ふつりと、紫龍の血が、紫龍の心臓の辺りで、小さく沸いた。
「手相……見てやろうか」

「紫龍、手相、わかるの?」
「ああ。今の日本の主流は西洋手相術だが、インドや中国で発達した東洋手相術というものもあるんだ」

「わ、紫龍、詳しいんだ?」
龍の血の滾りになど気付いた様子もなく、瞬が気軽に紫龍の前にその手を差し延べてくる。


紫龍は、その白い手を取って、

「瞬は――」

抑揚のない声で告げた。

「今、目の前にいる相手と結ばれないと、不幸になる」
――と。


一瞬きょとんとした瞬が、次の瞬間、堰を切ったように吹き出す。

「真顔で冗談言うんだから。紫龍ってば、氷河よりタチが悪いよ!」

「…………」


夏が終わりかけたラウンジに、瞬が軽い笑い声を響かせる。

紫龍は、最後まで笑みを作らなかった。






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