いずれにしても、それが喜びの涙でないのなら、瞬の瞳を濡らしたままにはしておけない。
「……瞬様。ここで、お待ちください」

一度、瞬の肩に手を置いてから、氷河は、玉座の前にいる王とその犠牲者たちに向かって駆け出していた。

剣を握っているハーデスの手首を掴みあげ、低い声で囁く。
「引っ込みがつかなくなっているだけだろう? 瞬様をこれ泣かせるな。瞬様が俺以外の誰かのために涙を流しているのを見ると、俺がその相手を殺したくなる。目だけで勘弁してやれ。盲いた王はもう王ではいられないだろう」

ハーデスが、おそらく、今、世界で最も幸福な男に違いない氷河の目を睨みつける。
長い沈黙を作り、やがて、ハーデスは剣を握っていた手から力を抜いた。

幸福でいる人間に、不幸な人間が敵うわけがない。


「……公爵殿に泣かれては、お手上げだ」
剣を氷河の手に渡すと、ハーデスは彼の母親を振り返った。
「母上、お許しください。私には、母上と亡き兄たちの無念を晴らすことができません。私には、王の命などより、公爵殿の涙の方がはるかに重いものなのです」

王妃が、唯一残された我が子の言葉を拒むように、小さく首を振る。

「誇りがございましたら、この男の前では、意地でも幸せな振りをいたしましょう。騎士殿の言う通り、それがいちばんの復讐でございます」

しかし、王妃には、そうすることができなかったから、どうしてもできなかったからこそ待ち続けた、復讐のこの時だった。
「でも……でも、それでは、私の失われた子供たち……あの子たちに、私はどうやって詫びればいいの……! この男は、そなたの兄たちの命を奪ったばかりか、そなたまで汚した男ですよ!」

母親には母親の嘆きがあり、その悲鳴は悲痛そのものだった。
闇の中にとどまろうとする母の肩を抱いて、ハーデスは、彼女にも小さな幸福が残っていることを訴えた。
「兄たちの分も……これからは、私をお慈しみください。幸い、私は今、手ひどい失恋を経験して傷心の身ですので」

「ハーデス……」
王妃が、初めて見る我が子の微笑に、目をみはる。

「泣くことなら、誰にでもできるそうです。そのようなこと、私はしたくありません」

血の色を帯びているようだった王妃の涙が、次第に透き通っていく。
玉座の周りに、少しばかり光が戻ってきていた。


これでいいのかと言うように、ハーデスが氷河を振り返ると、

「氷河……!」
ちょうど、瞬が氷河の胸に飛び込んできたところだった。


ハーデスがそれを見て、少しばかり切なげに微笑する。

「公爵殿が騎士殿に会うより先に――公爵殿に会いたかったな」


呟くように言って、ハーデスは王の手当てをするように侍従に命じた。






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