そこは、普段は瞬が足を踏み入れたこともない通りだった。

通りが活気づく時刻が近付いているらしい。
店の従業員らしき者たちが立て看板やスタンドサインを通りに出している姿がそこここにあった。
店頭の看板にはぽつぽつと明かりが点り始めている。

彼にしてみれば異世界のような場所で途方に暮れていた瞬を見付けてくれたのは、氷河の方だった。
「瞬……? 何してるんだ、こんなとこで」

瞬の名を呼んだその人物は、到底品があるとは言い難い、荒い仕立てのスーツを着ていた。
そして、なぜか、その肩が、瞬より10センチも高いところにあった。
「氷河…… !? な……何してるのっ !? 」

事情が飲み込めず、瞳を見開いて問い質した瞬に、氷河があっさりと答える。
「バイト」
「バ……バイトって、どうして氷河がそんなことしなきゃならないの……!」

瞬の質問は愚問だったらしい。
氷河には、こうすることが当然で自然で正当な就労目的があった。
「瞬に払う金、親父に出させるわけにはいかないだろ。瞬は、俺のために、俺が雇ったんだから。瞬を好きなのは親父じゃなくて、この俺なんだから」
「氷河……」

氷河は当然のことのようにそう言う。
だが、瞬には、それは当然のことでも認められることでもなかった。
なにしろ、氷河が立っているその場所は――

「だって、氷河は小学生なんだよ、こんなところで──」
「店長には18って言ってある」
「じゅうは……」
「だ……だって、だって、ここ、ホ……ホストクラブ──」
――の前だったのだ。

瞬の認識では、そこは、12が18でも、18が28でも、氷河のような人間がいるべき場所ではなかった。


「大丈夫だよ。酒なんか飲んでないし、客の相手もしてない。俺が好きなのは瞬だけだもん。こうして店の前でブラブラしてるだけで、客が寄ってくるんだ。俺、金髪で、いい男だから。見ろよ、この靴のカカト、12センチもあるんだぞ」

氷河は、瞬を抱きしめる時と同じように、自分のしていることの非常識も突飛さも――その善悪すら意識していないようだった。

「氷河っ!」
笑いながら、馬鹿げた構造の靴を示してみせる氷河を、瞬は怒鳴りつけていた。

「そんなお金、いらないっ! これまでに貰ったお金も返すっ」
「瞬……?」

氷河は、正しい目的のための真面目な就労を責められることがあるとは思ってもいなかったらしい。
瞬の剣幕を見た氷河の瞳には、意外の色が浮かんでいた。

「そんな……小学生の氷河にこんなことさせて、そのお金を貰ってたなんて……」
氷河が、幸運な家庭の幸福な子供ではないことには気付いていた。
身勝手な金持ちの親の払う金だと思えばこそ、瞬は、その高給を受け取ることができていたのである。
「こ……これじゃ、ほんとに、僕、お金で身体を売ってたことになるじゃない……!」

氷河がこんなことをして得ていた金だと知っていたら、瞬は決してそれを受け取ったりはしなかった。
受け取れるはずがないではないか。

「瞬……だって、欲しいもの手に入れる時は、代金払うのが普通だろ。人は金を貰うと大抵喜ぶし──」
「氷河っ !! 」

氷河の言うことは、ある次元では正しいことだった。
瞬の家庭教師というアルバイトも、もともとは、労働とその代価で成り立つ契約だったのだ。

それが、どうしてこんなに腹立たしいのか――。

それは、氷河を、世間知らずで我儘な金持ちのお坊ちゃんだと思っていたのが実は違っていて、自分の方がよほど氷河に甘えていたことを知ってしまったせいだったかもしれない。

「ほ……ほら。給料出たばっかりなんだ。店長、俺が歳を誤魔化してるのに気付いてるらしくて、口座とかに記録が残らないように、現金払いしてくれるんだ。これ、瞬に全部あげるから……!」
「氷河っ !! 」

違う。
そうではない。
瞬は、自分が、氷河に、お金を払わなかったらもう来ないのだと思われていたことが悔しかったのだ。

瞬に怒鳴りつけられた氷河が、びくりと身体をすくませる。
その様を見て、瞬は、自分に氷河を責める資格がないことを思い出した。
そして、自分の中に、怒り以外の感情があることに気付いた。

「ど……怒鳴ったりしてごめん。僕が悪かった。でも、僕が氷河と……その……あんなことしてるのは、お金のためじゃなくて──」

瞬は、氷河の『好き』が決して軽々しいものではなかったのだと思えることが嬉しかった。
少なくとも氷河は、今、彼が持てる誠意の全てを懸けて、瞬を『好き』な感情に従っているのだということが、瞬は嬉しくてならなかったのである。
そして、瞬は、自分の気持ちに気付くことを故意に避けていた自分が恥ずかしかった。






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