次の夜、瞬はまた、彼に会った。
もちろん夢の中で、である。

「お……お名前、教えてくださいっ! あなたはどこの国の人 !? 」

昨夜とは反対に、今夜は瞬が先に問う。
これが夢の中の出来事なのだとしたら、目覚める前に聞いておかなければならないという思いが、瞬の気を急かせていた。

「俺の名は――」
少しの間をおいて、彼は自分の名を名乗った。
「氷河だ」

「……氷河」
その名を、目覚めてしまっても忘れないように復唱してから、瞬は彼に重ねて尋ねた。

「氷河、これは夢? 氷河は、本当にどこかで生きてる人?」
「夢……のようだな。おまえに恋焦がれる俺の一念が、俺をおまえの夢に入り込ませてしまったのかもしれない」
「え?」

後宮の女たちに、まるで人形を愛でるように『可愛い、可愛い』と言われることには、瞬も慣れていた。
しかし、氷河の口調は、女官たちの子供をあしらうようなそれとは全く違う。
瞬は、『恋』という言葉を、言葉の一つとしてしか知らなかった。
それを当たり前のことのようにさらりと告げられて戸惑い、瞬は、そして、仄かに頬を染めた。

そんな瞬を、氷河が、意外そうな目をして見おろす。
「――本当に、気味が悪くないのか、俺が?」
「どうして? 氷河みたいに綺麗な人、僕、これまで見たことがありません」

瞬が真顔で答えると、
「おまえに会うまでは、俺もそう自惚れていたんだがな」
氷河は、そう言って苦笑した。

氷河が、その手を伸ばし、瞬の肩を抱きしめる。
まだ瞬の言葉を信じきれていないかのように、彼は瞬に尋ねてきた。
「こうされても嫌じゃないか?」

「はい」
瞬は、胸を大きく波打たせながら、彼の腕の中で頷いたのである。
なぜ氷河がそんなに自分の外見を不安に思っているのかが、瞬にはわからなかった。

瞬の耳許を、氷河の安堵の息が微かにくすぐる。
それから、氷河は、溜め息混じりに呟いた。
「長安か……遠いな……」

そう呟く氷河の唇が、瞬の耳朶に触れる。
瞬は、ひどく切ない気分になった。

「氷河は……どこにいるの」
「おまえの国の内にはいない」

「…………」
では、氷河は、この広大な漢の国の領土の外にいるということになる。
瞬にとって、それは、地の果てにも等しい感覚でしか思い浮かべることができない、はるかな辺境の地だった。

だが、それでも、瞬は、言わずにいられなかったのである。
「どこにいるのか、教えて。僕、会いに行きます!」
――と。

言ってしまってから、瞬は、そんなことを口にしてしまった自分自身を解しかねていた。
だが、氷河のいる場所がどれほど遠い異邦なのだとしても、氷河に会うためになら、その一歩を踏み出すことができる――瞬は、その時には確かに、そう思ったのである。

「おまえは、長安の都どころか、王宮を出たこともないんだろう?」
「それは……」

他ならぬ氷河に現実を知らされて、瞬は瞼を伏せた。
言葉の上だけでなら、誰にでもどんな冒険もできる。
その場の思いつきで軽口を叩くような人間だと氷河に思われてしまったことが辛く、瞬は、自分の語った夢物語を後悔した。

が、氷河は瞬の夢物語を不快に思ったわけではないらしかった。
瞬の軽口を責める代わりに、彼は、その青い瞳の内に瞬の姿を写し取りながら、微笑を浮かべた。

「俺に会いたいと思ってくれているのか。なぜ」
「なぜ……って」

問われてみれば、確かに奇妙なことである。
夢の中で1、2度出会っただけの異邦の人間に、そんな気持ちを抱くことは。
そんな自分自身を訝り、瞬は氷河の顔を見上げた。
そこに、漢人には決して持ち得ない宝玉のような色の瞳を見い出し、その瞳が自分の姿だけを映しているのに気付いて、瞬は、夢の中で、夢を見ているような気持ちになった。

だが、答えは見つからない。
「わかりません……」

「瞬は正直だ」
薄い苦笑を浮かべた氷河の唇が、瞬の唇の上におりてくる。
彼の唇から逃れようという気持ちは、瞬の中には湧いてこなかった。

自分の身体を自分の意思で動かすことができなくなる夢は、これまで幾度か見たことがある。
けれど、瞬が氷河の口付けを避ける気になれないのは、ここが夢の中だからではなかった。

「会えるものなら――本当のおまえを抱きしめることができたら……」
「会えないのっ !? 」
我知らず、瞬の口調は、氷河の囁きを責めるものになっていた。
瞬の小さな悲鳴に鼓舞されたように、氷河の囁きが強い意思を含んだそれに変わる。

「会いにいく。そして、必ず、この手におまえを抱く」
「氷河……」


氷河のその言葉を『嬉しい』と感じた――ことは覚えている。
いつの間にか、氷河の姿は瞬の前から消え失せ、そして、瞬の周りには朝が訪れていた。





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