──その部屋にも鏡があった。 ほとんど口をきかない客人を2階の客用寝室に案内した瞬は、その報告をするために、この館の主人の部屋に赴いた。 館の主人は、そんな報告には興味も抱いていないようだったが。 横目に一瞬、壁の鏡を窺ってから、瞬に問うてくる。 「アンドロメダ、あれが何者かわかるか」 「お気の毒な迷い人でしょう」 「アテナの聖闘士だ」 「それは何者です」 反問はしたが、瞬は、 それは、何の確証もない、ただの曖昧な“気分”に過ぎなかったのではあるが。 「私の 「あなたの主?」 「私に命をくださった方だ」 「では、彼はあなたの主の敵──なんですか」 「まあ、そうだ。私がここにいる事情を探りに来たのだろう」 「探られて困るようなことがあるの?」 「私にはないのだが」 「……知っているような気がするんです、あの人」 「おまえがそう思うのなら、そうだったのかもしれない」 「…………」 自分がなぜここにいるのか、そして、そうなった事情を、瞬は全く憶えていなかった。 だが、ここにいなければならない訳、ここを出ることは許されない訳は、知っている。 瞬の胸中を見透かしたように、サガは、抑揚のない声で瞬に命じた。 「まあ、世話をしてやれ。帰れと言っても帰るまい」 「僕に命をくださったのはあなたですから、あなたのご指示には従います」 「私に恩を感じることはない。私の主が私に命をくださったのは、ただの気紛れだ。私がおまえを助けたのも同様」 「気紛れでも……僕は、こうして、動いていられる」 それは、感謝すべきことのはずだった。 彼が気紛れを起こしてくれなければ、瞬は今頃、夜の黒い森よりも暗い闇の世界に沈み込んでいたはずなのだから。 「親切心からのことではない。私の主は、人間をチェスの駒のようにしか思っていない。自分のチェス盤の上に駒を放り投げて、どう動くのかを知りたいだけなのだろう。そんなふうな扱いをされている私が、自分も同じような遊びをしてみようと思っただけのことだ」 「そうなる前のあなたは、どんな人間だったんですか」 「憶えていない。どんな人間だったのか、どんなことを考えていたのか、家族、友人、敵、何もかも──」 彼の言葉が事実なのかどうかは、瞬には確かめようがない。 しかし、嘘だと決めつける根拠も、瞬は持っていなかった。 瞬自身、以前の自分自身を憶えているのかどうか、はっきりしない。 憶えていないのではなく、憶えているのかどうかすら、わからないのだ。 瞬を救ってくれた男はそうではないと言い切るだけの確証はなかった。 「不安ではないの」 「もちろん、不安だ」 館の主よりも不安そうに尋ねた瞬の髪に、サガは、その手を伸ばし、触れた。 くすんだ色の長い髪を広い背に流しているこの館の主は、青年にも老人にも見えるような、不思議な様子の瞳をしている。 彼は、諦めに似た微笑を目許に浮かべて、瞬に告げた。 「だが、人間というものは、誰もがそんなものだろう。自分が何のために生まれてきたのかを知っている人間は誰もいない。神が、運命が、我々に何をさせたいと思っているのか、何ひとつ知らされないまま、手探りで生きているのが人間だ」 「 瞬が苦しげに眉根を寄せて呟く。 瞬は、ふと、つい先程初めて会ったはずの金髪の男の、まるで瞬を責めているような青い瞳の色と輝きを思い出した。 ひどい頭痛がした。 |