振り払おうとしたのだが。

「前よりずっと好きだけど……前よりずっと心配だよ。あんなに簡単に死のうとするなんて、冗談でなく、アテナの聖闘士失格。天秤宮でのこと、すこしも学習してないんだから。恐くて目を離せない」

だが、何もかもが罠に思える──のだ。
氷河のそんなふうに無謀なところも、恋人を自らの囚人にしておくための策略なのではないかとすら。
それは、幸福な──幸福な不安だった。

「おまえが生きていさえすれば、俺も根性で生き続けようとする。おまえが死にさえしなければいいんだ。俺のために、何が何でも、石にかじりついてでも、生きていてくれ」
「うん」

小さく頷いた瞬を、氷河が抱きしめ唇を重ねてくる。
氷河が、どんな気持ちで、他の男に触れられた唇に彼の唇を重ね、他の男に触れられた身体を抱きしめているのかと疑い、瞬は一瞬身震いした。

その腕に込められた力の強さを恐れながら、しかし、瞬は、氷河の腕の中で徐々に陶然としていった。
氷河の、溜め息のような甘い罠のようなキスと、髪に絡む指先。
瞬にとって、氷河は、安心感と刺激と希望とを、同時に与えてくれる存在だった。

氷河でなければ駄目だと思う。
氷河だと思えば、氷河ではない者をも受け入れてしまえるほどに、氷河でなければ駄目だと思う。
氷河の寛容と無謀が、自分をからめ取るための策略でも、それが意識してのことでも、無意識のものでも、瞬はもはやどうでもよかった。
瞬は氷河にしがみつき、それをもっと欲しいとねだってみせた。

氷河が、もう一度だけ、なだめるようなキスをして、瞬に言う。
「続きは後でいくらでもしてやる。俺たちの世界に戻ったら。ここを出よう。ここは──気に入らない」
「あ……うん、そうだね」
少しばかりがっかりして──否、大いに落胆して──それでも瞬は氷河に頷いた。

主のいなくなった館は、改めて観察してみると、ひどく古びて黴臭さの残る館だった。
しかも、死の静寂に包まれている。
あの鏡は、いつのまにか消えていた。
鏡が掛かっていたはずの壁を無言で見詰めている瞬に、氷河が尋ねる。

「あの鏡に、おまえ、一度も一瞬も映らなかったのか? 本当に?」
「映らなかったけど……。でも、僕は四六時中鏡を見ていたわけじゃないし……。だいいち、そんな、完全な善人や完全な悪人なんて、普通の人間にはなりえないものだよ」
「だが、おまえは特別だからな。この結界の中でも、あの森の結界の中でも、俺たちとは違っていた。おまえには特別な何かがあるのかもしれないぞ。本当は天使か何かなんじゃないかと、俺は時々思う」
「そんなチープな冗談はやめてよ。僕は普通に弱いし、普通に醜いし──普通以上に卑怯な人間だよ……」

『サガを氷河の代わりにした』──氷河のために、瞬は、その言葉を口にすることはしなかった──できなかった。
氷河も、もうそのことには触れようとしない。
彼は本当に、そんな話は聞きたくないらしかった。
「弱いことは罪じゃないぞ。弱さに甘んじることは罪だが。──と、俺が言うのも何だが」

この館の主だった男の部屋を出て、その扉を閉める。
廊下にあったはずの照魔鏡も、いつのまにか消えていた。

「おまえは──良いことをしない罪も、夢や理想を諦める罪も、人の痛みに気付かない罪も、人に負わせた傷を忘れる罪も犯さないからな。学習能力皆無で、自分の過ちをすぐに忘れてしまう俺とは大違いだ」

「そんな罪は誰も──」
普通は誰も犯さないだろう──と、瞬は思った。
良いことは、機会があったらしたいものだし、夢や理想を諦めたら、人は生きていくことができない。
他者に負わせた傷は自分に撥ね返り、決して忘れさせてくれないものである。
瞬は、そう思っていた。

氷河が、瞬のそんな考えを、至極あっさりと否定する。
「誰も犯さないとは思うなよ。ありがちな罪だ」

積極的に人を憎み、人の不幸を願う。
そんな罪とは別の種類の罪が、この世には確かに存在するのかもしれない。
サガも最初は、自らの理想を追っていたはずだった。
彼の罪は、完全な善を求めるあまり、理想を諦めたところから始まったのだったかもしれない。





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