「忘れさせたのは、そなたか?」
ハーデスの声には、明確に非難の響きが混じっていた。
「私は、ゲームのルールは守ります。あの者は自分の意思で忘れたのだ。もっとも、それを意思と言っていいのかどうかは、私にはわかりかねますが。あの者は、自分の心を守るため、あるいは――あるいは、あの男を憎まぬために、自ら忘れることを欲したのですよ」
アポロンは、大仰に肩をそびやかして、その非難の不当を伯父に訴えた。

「かわいそうに……。あの子は何も悪いことをしていないというのに」
形ばかりの同情を、その言葉と表情にたたえたアポロンの瞳は、炯々けいけいと輝いている。
自分の思う通りに進んでいくゲームを、彼は心から楽しんでいるようだった。
「ただあなたに愛されただけなのに。もっとも、人間が生きるということは、そういった理不尽に耐えるということでもあるのでしょうが……。そうは思いませんか、伯父上?」

最も深い罪を負っている者は誰なのかを 明言することはせず、アポロンは、彼の伯父の表情を横目に窺った。
そうして初めて気付いたふうを装い、心配顔を作る。
「伯父上は浮かぬ顔だ」
何をどう装おうと、太陽神が、人間たちと人間に心惹かれている神の苦悩を楽しんでいることは明白だったのだが。

「瞬は――瞬の心を踏みにじったあの男を憎み、その上で、その憎しみを乗り越えなければならなかったのだ。そうすることによって、瞬の魂の清浄は保たれ、また強くもなる。だが、瞬は、そうするための努力を怠ろうとしている……」
人が清らかであるためには――人が清らかになるためには――、その者は何よりもまず罪と汚れを知らなければならない。
ハーデスは、だからこそ、アテナの聖闘士である瞬が冥府の王の拠り代として選ばれたのだと思っていた。
その理由はどうあれ、人の命を、人の希望を、人の未来を奪うという、この上なく深い罪を知る者こそが、その罪の深さを知ることによって、最も清浄な魂の高みに至ることができる可能性を有しているのだから。
だが、今の瞬は――。

「忘れることで心の平穏を保とうとするなど、どれほど愚かで弱い人間にもできることだ。あれではもう、瞬の魂は汚れたも同然……」
冥界の王が苦々しげに呻吟する様を、アポロンは機嫌よく目を細めて眺めやった。
「所詮、人間など その程度の存在ということでしょう。さて、これで人の世が冥府の王に滅ぼされる時が200年は先に延びたでしょうか?」
深紅の太陽神は、歌うようにそう言って、楽しげに笑った。






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