ぬれねずみ


前の晩は雨が降っていた。
土砂降りというほどではなかったけれどかなりの量の雨が降った。
今はすっかり止んで夏の日のアスファルトをしっとり静かにさせている。
雲間からまだ弱い朝の光がじんわりと射してくる。
そんな涼しい夏の中を瞬は歩いていた。

雨上がりは気持がいいね。
そう言えば前ヤックンと岡江さんが 雨上がりはマイナスイオンが発生して気分を落着かせてくれるんだ、って言ってたっけ。

そんな他愛も無い事を考えながら瞬はさっきまでさしていたピンクのビニール傘をくるくると回していた。

ぴちょん。
ぱらぱらぱら。

一枚の紫陽花の葉を滑り落ちた水滴が他の葉を震わせてちっちゃな嵐をその一体に巻き起こす。

ぴちょん。
ぱらぱらぱら。

ぴちょん。
ぱらぱらぱら。

「あ…」
小さな嵐の中に不自然な水滴の散りかたを瞬は見つけた。
その自然の法則とは違う嵐を起こした場所には…。

「あはは。ぬれねずみだぁ。」

そこにはとても御機嫌とはいえない表情をしているぬれねずみが面倒臭そうにだらしなく座っていた。
イヤ、正しくはだらしなく座っていたぬれねずみが瞬に反応して御機嫌ではない表情を浮かべた、かもしれない。

笑うべきシチュエーションではないのだけれど仏頂面をしてその場に座っているぬれねずみに瞬は表情を思わず綻ばせてしまった。

ぬれねずみは笑われた事に機嫌を悪くしたのかぷい、と横を向く。
「ごめんごめん。怒らないでよ。」
瞬がしゃがみ込んであまり申し訳無くなさそうにぬれねずみに謝る。
そして太陽の光色をしたぬれねずみの濡れた頭をくちゃっと撫でた。

でもぬれねずみはうんともすんとも言わない。
放っておいてくれとでも言いたそうな顔でそっぽを向いたまま。

「あのさぁ、フツーこういう場合って同情を引くような目をしたり切なそうに声を震わせたりするもんじゃないの?」

確かにそうかもしれない。
どう見てもこのぬれねずみは行く所のないぬれねずみだった。
誰かが通りかかれば同情してくれと言わんばかりに目を潤ませるのが本来有るべき姿だろう。

「 ここ結構人通るでしょ?誰も気にとめてくれなかったの?」

そう、そしてこのぬれねずみはとっても綺麗で…こんなにびしょぬれでも綺麗だと判るくらいに綺麗なのにずいぶん長い間放って置かれている様なぬれねずみっぷりだった。

「そんな可愛げない顔してるから誰も連れて行ってくれないんだよ。」

そう、こんなに綺麗なぬれねずみなのだからちょっと可愛らしい素振りを見せればすぐにでも誰かが助けてくれそうなのに。

「ほらほら、何とか言ってごらんよ。」
瞬はえい、とぬれねずみのおでこを小突いた。
ぬれねずみはなんでもずばずば発言する上に人を小馬鹿にしたような態度をとる瞬を心底面倒臭そうに一瞥するとこれまた面倒臭そうに立ち上がり瞬を無視したまま彼の横をするりと抜けて行ってしまった。

「ちょっと待ちなって、可愛くないなぁ。」
瞬の台詞に背を向けたままぬれねずみは反対方向へとだらだら歩いて行く。
頭から爪先までびっしょり濡れた冷たそうな背中を向けたままで。

自分を無視して何処かへ行こうとするぬれねずみの背中を瞬はくん、と捕まえた。
瞬の指先にひんやりとぬれねずみの温度が伝わって来る。
つめたい…。
瞬はぬれねずみの背中をそうっと抱きしめた。
「どうせ行く所なんかないんでしょ?」

重なるふたりの影を遠くから見ていた朝露がつるんと紫陽花の葉の上を滑り落ちていく。


抱きしめた彼はとても冷たく、抱きしめた彼はとても温かかった。
そのあまりにも違う温度差に瞬がくぐもった声で呟く。
「ごめんね、氷河…。」

おうちにかえろう。
水溜まりに映った紫陽花がやさしく囁いた。




おしまい




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