空模様があやしくなりはじめ、瞬は家への道を急いでいた。
今日は誕生日。
故郷の料理を作るといって朝から張り切っている氷河に、準備ができるまで外にいろと追い出され、仕方なしに彼が注文したケーキを街まで取りに行ったところだった。
慣れない手つきで慣れない仕事を一生懸命やっつけている氷河の姿を思い出し、瞬はひとりくすくすと笑った。
氷河の張り切りようと言ったらすごかった。
なにしろ地中海沿岸にいて北のはずれのものを作るというのだから、一週間も前から材料を手に入れるのに奔走し、そして三日も前から下ごしらえを始め。
この一週間、彼は世のためひとのためになるような生産的なことは一切せず、ひたすら日々を瞬の誕生日の準備に費やしているのだった。
ケーキを抱え家路を急ぐ自分を、瞬はとても幸せなものに思った。
自分がいちばん大切に思うひとが、自分の誕生日を祝うためにこれほどに時間を割いてくれる、その事実が心を芯から暖めていた。
ひとをいちばん大切だと思うそのことに、何の制限もないのだと瞬は思う。
彼が同性であるとか、半分は血のつながった兄弟であるとか。
そんなことはどうでもよく。
ただ、心から大切に思えるただひとりのひとが存在する、というそのことが、どれほどにすばらしいことか。
それを実感する今日この頃なのだった。
瞬は身軽に岩で囲まれた聖域の結界へと足を踏み入れる。普通の人間ならまずこの岩を登りその先へと行くことなど不可能なのだけれど、瞬はケーキを片手に軽々と駆け上る。
岩山を駆け抜ける途中で、ふっと空気が変わる。この境界が瞬は好きだった。
現世と聖域との境。結界の端。
遠くに聞こえるざわめきがぴたりと止む。清冽で透き通った空気が肌を刺す。
瞬はとん、と軽く音を立てて岩から飛び降り、そしていつもどおり小径をゆこうとした、そのとき。
「…不思議な運命だね」
唐突に声がした。
瞬が驚いて振り返る。
「…誰?」
右手に水晶を、左手に杖を持った老婆がそこにはいた。
「私は古くからこの地に在り、人々の未来を占い、そして幾多の戦いを見てきたよ…。数奇な運命を持つ、あんたのことも見ていたよ」
目深にかぶったフードのせいでその顔がよくは見えなかったが、そこからのぞく両眼は鋭い光を放っていた。瞬は理由もなく胸騒ぎを感じていた。この老婆の言うことを聞いてはいけないと思った。このような生き方をして、そして生き抜いてきたその経験の中で、直感を無視してはいけないことを瞬は重々知り抜いていた。
「ごめんなさい、僕、急いでいるんで…」
瞬は失礼にならない程度に丁寧に、しかし足早にその場を去ろうとした。
「お待ちよ。聞かなければ後悔するかも知れないよ」
ごめんなさい、ともう一度頭を下げて去ろうとする瞬を、老婆の声が追いかけた。
「あんたとそしてあんたの愛しているひとに関わることだよ」
背を向けて去りかけていた瞬は、その言葉に足を止めて振り向いた。
「…愛しているひと?」
瞬は軽くまばたきをした。
「不思議な運命だね。あんたはあんたを最も愛するものを必ず喪う運命にある」
老婆が語る言葉に、瞬は息をのんで老婆を凝視した。
心臓を鷲掴みにされたような衝撃、が、あった。
───自分を最も愛するものを喪う?
「…まさか」
瞬は辛うじて苦笑に似た表情を浮かべることに成功した。
「まさかそんなこと」
そう、占いなど。所詮それほどあてになるものというわけでもあるまい。
そういえば街の少女達がよく当たる占い師がどうの、と噂しあっているのを見たことがある。どんなひとと結婚するか、とか、恋人の心の裡を知りたくて、とか。そんなふうに、他愛もないもの、なのだろう。
「占いなどは信じぬか?」
老婆が軽く笑いを含ませた声で問う。
「…いえ、そういうわけじゃないんですけど」
心の中を見透かされたような気がして、瞬は決まり悪げに答えた。
しかし老婆は表情を改めて瞬に告げた。
「ではひとつ予言をしよう。私の占いを信じられぬというならば、信用に値する事実を証明するしかあるまい」
老婆はそう言うと右手に持っていた水晶を目の高さに持ち上げた。
「其方は今日、最も愛している者から最も大切な物を貰うだろう。いちばん欲していた言葉と共に」
「……」
「それが正しい事実であるならば、其方も私の言うことを信じずにはいられまい?」
瞬は胸騒ぎの波が大きくなるのを感じていた。一刻も早くここから逃れたかった。
「…ごめんなさい!」
老婆に対して礼を失した行動であるとわかってはいたが、瞬は踵を返し一言そう残しその場から走り去った。
老婆は哀れみをその瞳に浮かべ、遠ざかる瞬の後ろ姿を見送りつぶやいた。
「───不思議な運命だね」
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