「この絵って、グレートベア・レイン・フォレストの風景なんだよね。どうしてこんなに淡く霞んでいるの。僕が写真集や絵ハガキで見たグレートベア・レイン・フォレストは、もっと鮮やかな緑色の森だったよ」 瞬がその絵を見て最初に言った言葉がそれだった。 今、瞬の目の前には、幅が1メートル弱、少々変形サイズの油彩画がある。 描かれているのは、カナダのブリティッシュ・コロンビア州にある、世界最大の温帯雨林グレートベア・レイン・フォレストの夏の午後の風景。 その絵に、しかし、瞬は違和感を覚えていたのである。 瞬の知っているグレートベア・レイン・フォレストは、燃えあがるような緑の洪水――とでも言いたいほど生き生きとした深い緑色の森だった。秋や冬ならともかく、そして、朝や夕暮れならともかく、この淡い色調の絵は、本来なら森の緑が最も鮮やかに燃えあがる“夏の午後”と題されている。 それは、瞬でなくても、違和感を覚える絵ではあったのだ。 「あれは、何て言うか……。もっとこう、見てると目が痛くなってくるみたいな感じがするほど濃い緑色の森だったよ」 だが、今、瞬の目の前にある森の絵は、淡く優しいペイルグリーン。 グレートベア・レイン・フォレストを思い浮かべる時、誰もが抱く濃緑色の森の激しさはない。 氷河と瞬が、その画家の絵に出会ったのは、グラード財団が資金を出している某自然保護基金の主催した絵画展だった。 『地球温暖化による自然の破滅を、人類の英知で防ごう』というのが、その絵画展のコンセプト。 原始の姿をとどめる巨木から、生まれたての若木。 ありとあらゆる種類の樹木が、生きることを誇り合うように共生しているグレートベア・レイン・フォレストもまた、他の地球上の森林の例に洩れず自然破壊の危機に瀕しているらしい。 その画家は、若い頃にこのカナダの広大な森の美しさに魅せられ、それ以降グレートベア・レイン・フォレストだけを描き続けているので有名な日本人風景画家だった。 画家自身、グレートベア・レイン・フォレストの側にログハウスを構え、森と共に暮らしているらしい。 “カナダの森に恋した画家”という紹介記事を、瞬も雑誌で見たことがあった。 「触れたら怪我をしそうな、火傷でも負ってしまいそうな危険な森、か」 「氷河ってば、変な言い方しないでよ。森に触って怪我だの火傷だの」 顔をしかめる瞬に、氷河は曖昧な笑みを投げ返す。 触れたら怪我をしそうな鮮やかな緑色。 氷河の脳裏にその時浮かんでいたものは、東京都の数倍の面積を持つという、広大な温帯雨林の姿ではなかった。 「この画家も、最初の頃は、写真より鮮やかな濃緑の絵を描いていたそうだぞ」 それが、徐々に淡い緑に変わっていったのは――。 噂によると、画家の描く鮮やかな緑に魅せられた人々が、大挙してグレートベア・レイン・フォレストに押し寄せていったためらしい。 美しい絵に魅せられて森を訪れた人々は、普通の観光客などとは違って、森の美しさを破壊するようなことはほとんどしなかった。 それにも関わらず、画家は、自分の絵の賛美者たちの行動に、自分の恋した緑の森を奪われてしまうのではないかという、強迫観念にも似た恐れを抱いてしまった――らしい。 恋する森の真の美しさを他人の目に触れさせないために、画家の絵は少しずつ少しずつ淡彩のそれに変化していった……。 それが、画壇の定説なのだそうだった。 画家は、自分の恋する森を他人に奪われないために、淡いベールで覆い隠しているのだ――というのが。 「ま、人ひとり独占するのも、簡単にできることじゃないんだ。いくら惚れ込んだところで森や海を自分だけのものにするなんてことができるわけがない。ゲージュツカっていうのは、やっぱりどこか普通の人間とは感覚が違うんだろうな」 人ひとり独占するどころか、独占したい人にまだ告白もできずにいた氷河の言葉は、半分が軽蔑、残りの半分がやっかみで成り立っていた。 いや、むしろ氷河の胸中にあったのは羨望だったのかもしれない。 そこまで己れの恋を堂々と主張する画家に対しての。 氷河のその言葉を、しかし、瞬ははっきりと否定した。 「それ、違うよ、氷河、きっと」 「なに?」 「その噂もきっと間違い。このペイルグリーンは、独占欲の色なんかじゃない」 「…………」 「この人の絵が変わっていったのは、きっと、この人が、自分の恋した森を愛し始めたからだよ」 「……?」 「我儘な恋の独占欲なら、この人は森の絵を描かなければいいだけだもの。描いても発表しなきゃいいだけだもの。でも、この人は、森を愛し始めて……独占欲がすっかり消えちゃったわけじゃないけど、自分の我儘で独占することもできないほど森を愛し始めて……きっと、だから、この絵はペイルグリーンなんだよ」 森の絵を見あげる瞬の眼差しには、憧憬の念がこもっている。 「ペイルグリーンって、恋と愛の中間の色なのかもしれないね」 「…………」 そうなのかもしれない。瞬の言うとおりなのかも。 氷河は、瞬の主張には少しの異論もなくすぐに賛同できた。 が、しかし。 氷河には、そんなことがすぐわかってしまう瞬――というものを、素直に受け入れることができなかったのである。 そんなことをすぐに察してしまえるほどの恋と愛の経験を、瞬はいったい、いつ、どこで、誰と積んできたというのだろう。 氷河は焦りを覚えていた。 その鮮やかな緑に目が眩み、好きだと告げることをためらっているうちに、瞬は他の誰かを恋してしまったのだろうか? いったい、誰が、どうやって、自分の目を盗み、そんな図々しい真似をすることができたのか――? 眩しくて、今までまともに覗いたこともなかった瞬の瞳を、氷河は初めて正面からまっすぐに見詰めた。 そして、瞬の緑色の瞳の中に、瞬が恋する図々しい男の姿を見いだす。 「ねえ、氷河」 やっと気付いたのかと呆れているような瞬の声音は、しかし、どこか嬉しそうでもあった。 「氷河は、僕を絵に描くとしたら、何色で描いてくれるの?」 鮮やかな緑。 瞬の後ろには、優しいペイルグリーンの森。 「ねえ、何色?」 悪戯っぽい輝きを呈した瞬の瞳に引き込まれていくような錯覚に捕らわれながら、氷河は自分の選ぶ絵の具の色を答えた。 ■ このショートショートはフィクションです。 ■ 当然のことながら、登場人物も実在の人間ではありません。 |