氷河の視線の静寂にたまりかねた瞬が逃げ込んだ先は、彼の兄の許だった。

兄の姿を視界に入れると、それまで自分を支配していた氷河の視線の呪縛が、少し緩むような気がする。

平生の落ち着きをなんとか取り戻して、瞬は兄に尋ねた。
「兄さん。兄さんは、誰かを好きになったことがありますか」

「何だ、やぶからぼうに。そんな相手ができたのか」
自分のことには触れずに、一輝が反問してくる。

「……いいえ」
瞬は、意識して自然に、兄から視線を逸らした。

瞬の素振りの不自然さを見てとった一輝は、瞬の返事を言葉通りには受け取らない。
「ちゃんと会わせろよ。俺が目利きしてやる。まあ、おまえの判断を信じてはいるが」
「…………」

そうではないのだと、はっきり否定することが、瞬にはできなかった。
そして、肯定することも、できなかった。


「人は……どうやって、自分のたった一人の人を決めるんだろう……」
代わりに瞬は、独り言を呟くように、再度兄に尋ねた。
「不思議なことですよね。いつも側にいてくれる人? それなら、家族だって仲間だって同じなのに」

「誰かを特別だと思ったことがないのか」
兄に問われ、しばらく考え込んでから、瞬は僅かに首を傾けた。

「──兄さんは特別ですよ。沙織さんもかな。ジュネさんもお姉さんみたいな感じがするし、星矢や紫龍も大事な仲間です」

一人、出てこない名前がある。
一輝は一瞬、不愉快そうに眉をひそめた。
瞬の口から出てこない名前に、一輝が言及することはなかったが。


「たとえば……そうだな。おまえは、誰にでも人当たりが良くて親切だ。それは、おまえには当たり前のことで、さして重要なことじゃない。ただの癖みたいなものだからな。だが、それまで人の優しさに触れたことのなかった人間が、そんな親切を受けたら、そいつには、おまえが天使にも見えるだろう」
「…………」

「誰かが誰かにとって特別な存在になるなんてことは、環境や……タイミングの問題なのかもしれないな。ただの偶然の産物にすぎない」

「偶然……?」

そんな頼りないものに、人の心は――人生までもが――左右されてしまうというのだろうか。

だとしたら、その“偶然”というものは、恐るべき邂逅である。
そして、その“偶然”に出会えない人の不幸には、計りしれないほどの深さと大きさがある。
“偶然”というものの重さに、恐怖と感謝とを覚えながら、瞬は無意識に身震いした。


「特別な相手でなくても、平気で命を懸けられるような人間を好きになってしまった奴は、不運の極みということになるな」

同情なのか揶揄なのか―― 一輝自身にも、自分の感慨の意図はわかっていなかったのかもしれない。
表情らしい表情を作らずに――作れずに――、彼は、その場にいない男に向かって呟いた。





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