紫龍が、『 ニル・アドミラリ―― nil admirari ―― 』という言葉に最初に接したのは、森鴎外の『舞姫』だった。 無論、自分から選んで読んだのではなく、中学か高校の現代国語の教科書に載っていたものを読んだ――読ませられた――のである。 どこが現代国語なのかとクレームをつけたくなるような文体とストーリーに辟易したのを憶えている。 その『舞姫』の主人公である太田豊太郎が、留学した異国の地で『 nil admirari 』な境地に至ったくだりがあった。 ニル・アドミラリ――『何事にも感動しない』という意味のラテン語である。 言葉としては知っているが、紫龍自身は、実際にそういう人間にお目にかかったことはなかった。 人間は、良くも悪くも心で生きている存在である。 形而上学的な意味でも高尚な意味でもなく――人の身体は心の従属物に過ぎないと思うしかない場面に、精神科医であり臨床心理士でもある紫龍は、これまでうんざりするほど立ち合ってきたのだ。 鬱病患者と自称する者たちとて――鬱の原因が、脳内神経伝達物質の代謝の障害に因らない者たちは特に――実際のところは、自分自身のことにだけ、 ニル・アドミラリ(無感動)どころか、ムルトウム・アドミラリ(激情的)なせいで、逆説的に気分が沈んでいるにすぎない。 もし、真にニル・アドミラリな人間が存在するとしたら、それは、廃人と呼べるような人間だけである。 ――そう、紫龍は思っていた。 今、彼の目の前にいる男に出会うまでは。 |