うるさい蝿たちを追い払い、俺は、白い風景画の前に息せき切って駆け戻った。
が、そこに、あの少年はいなかった。

「あの子は…… !? 」
俺は、白い絵のすぐ側に設えられている受付にいたスタッフを捕まえて、なじるように問い質した。
あの子がいないのは、そのスタッフのせいではなかったろうが。

「あの子?」
受付係が、俺の剣幕に驚いて僅かに後ずさる。

「ここに立っていたろう! 細くて、目の大きい、中学生くらいの――」
「ああ、あの綺麗な……ついさっき帰りましたよ」
「帰った !? 」
『ついさっき』ということは、俺を待っていてくれたんだろう。
くだらないインタビューなどさっさと切り上げればよかったと、俺は歯噛みをした。

「何か伝言は !? 名前は? 名前は聞いてないのか !? 誰かの招待状で来たんだろう !? 」
個展初日の今日は、本来、招待客しか入場できないことになっている。
俺が怒鳴りつけると、受付係は呆れたようにぼやいてみせた。
「招待客用チケットが、ネットオークションで幾らで取り引きされていたとお思いですか。招待日と言ったって、今日は一般客の方が多いですよ」

無料で配られた招待状がネットオークションでやりとりされていたというのは初耳だった。
多分、招待状を受け取った画壇のお偉い方々が横流しでもしたんだろう。
大いにありえる話だ。

しかし、あの子は、絵の見方もわからないミーハーな子供ではなかった。
俺が――俺の事務所が――招待状を送った画壇関係者の中の誰かの縁者か何かには違いないんだ。
だが、それは誰だ?

あの子に二度と会えなかったら、俺の画業はこれで終わりだ――と、俺は、その時、半ば本気で思っていた。
そんな俺に、天が同情したのかもしれない。
呑気な受付係が、俺とあの子を繋ぐ糸がまだ切れていないことを、俺に教えてくれた。

「あの子、白い絵を予約していきましたよ。予約……というか、もう、あの子のものです、その絵は。全額払っていきましたから」
受付係のその言葉を聞いて、俺は喜ぶより先に驚いた。

それは、子供に払える額ではないはずだった。
本業の風景画の方が売れないことにやけになって、俺はその小品に、100万以上の値をつけていたんだから。

「訳あって名乗れないとかで、そこのパソコンを使って、先生の口座に代金を振り込んでいきました。展示会の最終日に引取りのために運送屋をよこすそうです」
驚愕して声を失っている俺に、受付の男が弁解じみた説明を続ける。
「入金は確認しました。手違いがあった時に責任はとれないと言ったんですけど、領収書と権利書だけ受け取って出ていきましたが……」

「…………」
俺は、訳がわからなかった。
あの絵が売れたことも、その代金を、あんな子供がぽんと支払っていったことも、俺には信じられないことだった。

だが、とにかく、俺とあの子の繋がりは切れたわけじゃない。
運送屋が来た時に、納品先を確認すれば、あの子の住まいはわかる。
俺は、自身にそう言い聞かせて、逸る心を必死に抑えた。

絵画の個展で2週間という開催期間は短すぎるほどに短いものだったが、その短い期間が、俺には永劫に続く拷問の時にも感じられた。






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