「…………」 ――それはいったい何故だったろう。 自分の分不相応な幸福に踊りだしたいくらい浮かれていた俺は、瞬の伏せられた白い瞼と、まだ固い薔薇の蕾のような唇を見ているうちに、ひどく切ない気分になった。 「俺は――」 そして、この幸運を、本当に自分のものにしていいのだろうかと、一瞬迷った。 「俺は、心というやつは、人が生きていくのに不必要で邪魔なものだと思っていた。そんなものがあるから、人は、孤独だの憎悪だの嫉妬だのに苦しむことになるんだと。だから、人間を拒絶したあんな絵ばかりを描いていた」 手を伸ばせば届くところにある優しい季節を知ってしまった今、自分がもうそれ無しでは生きていけないことはわかっていたんだが。 「だが、神がなぜ人間に心を与えたのか、俺は、おまえに会って、やっとわかった。俺はおまえに会うために作られたし、俺の心は、おまえを愛するために与えられたんだ」 「氷河……」 突然真面目になってしまった俺に戸惑ったのか、瞬が固く閉じていた瞼を開ける。 「おまえがいなくなったら、俺は絵を描くのをやめる」 それから、瞬は、瞬の描く絵のように、やわらかく微笑んだ。 「氷河の作品をわかってくれる人は、僕の他にもきっとたくさんいるよ」 「鐘子期ひとりがいればいいと、伯牙も思ったんだろうな」 瞬は、何か言いたげな目を俺に向けてきたが、俺は今はそんな話は聞きたくなかった。 大事なのは、俺が瞬に出会えたということで、それ以上に重要なことは、今この場にはない。 俺と瞬を巡り会わせてくれた神の手に感謝して、俺は瞬に口付けた。 Fin.
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■ ご参考までに ■ ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ 『至福のルドヴィカ・アルベルトーニ』 |