それにしても、そこは本当に殺風景な部屋だった。
人との交わりを絶ち、自身の命を永らえることだけを目的とした時、人が必要とするものは、これっぽっちの家具と日用品だけなのかと感嘆するほどに。

仮にも学者だった者が、書籍ですらほんの数冊で事足りるものなのかと、本の収められているケースを覗き込んだ俺は、その中に、14年前には最新だったのだろう論文集に混じって1冊のノートがあるのに気付いた。
瞬の父親がつけていた日記、だった。


『死は、人間にも動物にも植物にも必ず訪れる。
だが、同胞の信頼を裏切るのは人間だけだ』



彼の日記の1ページ目には、そう書かれていた。
日付は、14年前。


『雑草という名の植物はない。
しかし、人は、人を雑草にもする。
あんな醜い世界を、この子には知らせたくないと願い、私はここに来た。
自然は人を裏切らない。
野生は人を偽らない。
ここで、人間社会の欺瞞や醜さを知らずに、この子は自然に幸せに育っていくんだ』



ケースに収められていたのが幸いして、その日記は、読むに耐えうる状態を保っていた。
この文を書いた人間の身体は朽ち果て、この世から消え去ってしまったというのに、まるでその心だけを残すように。

日記のページを繰るにつれ、人の世界の醜さを呪っているようだった記述は、瞬の成長記録へと変わり、それと平行して、彼の身体の不調を連ねた記述が散見されるようになっていった。


『私は、彼を許すべきだったのかもしれない。
彼も、自分から望んであんなことをしたはずがないのだから。
大学病院という機構がどういうところなのかは、私も知らぬわけではない。
彼が何と言ったところで、病院側は事実隠蔽に走っただろうし、それに逆らば、彼は彼の人生を棒に振ることになっていただろう。
私は、彼の友人だというのに、一度でも彼の立場に立って、ものを考えたことがあっただろうか』



時間は、瞬の父親に寛容の心を養ってくれたものらしい。
日記の語調は、前半と後半では随分と変化していた。


『今日、瞬が、肩を落として帰ってきた。
瞬に懐いていたリスが動かなくなってしまったそうだ。
明日から誰を相手にして遊べばいいのかと、瞬は落胆している。
瞬は、死の意味も知らない。
瞬には、ちゃんと話のできる友だちが必要なのかもしれない』



自身の不幸を嘆くばかりだった日記は、瞬の行く末を案じる父親のそれになり、彼の迷いは決意に変わっていった。


『自然は裏切らない。
野生は偽らない。
だが、裏切るかもしれない人間というものを信じる強さも、それは与えてはくれない。
傷付くことを知らない人間、裏切られることを知らない人間は、強い存在なのだろうか。
幸福な存在なのだろうか――』



そして、最後のページ。
日付は記入されていない。


『やっと、ボートができあがった。
明日、私は、瞬を連れてフロレアーナ島に向かう。

この子には、人を信じる強さを、人に裏切られても信じることを諦めない強さを、傷付いても立ち直る強さを身につけてほしい。
それを瞬に教えるために、私は、彼に会いに行く。
全てを水に流して、もとの友人同士に戻ってくれと頼むつもりだ。

たった2年で、私は随分変わってしまった。
奴には、私が私だとわかるだろうか――』



――そこで、瞬の父の日記は終わっていた。


12年前、親父の知らない場所で、親父は既に許されていたんだ。
それは、不運のせいで、親父に伝わることはなかったが。

「よかったな、くそ親父」

俺はそう呟いて、瞬の父の骨を島の土に還し、彼の日記を持って、二度と誰も足を踏み入れることはないだろう小さな家を後にした。






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