「あ……」
読んでいた本の栞が、ページの間から氷河の足許にすべり落ちる。
それを自分で拾おうとした瞬は、向かい側のソファに座っている氷河の視線が、瞬の落し物の上に注がれているのに気付いて、そうするのをやめた。
「拾ってくれる?」

それだけのことで、氷河の機嫌が格段に良くなる。
表情はあまり変わったように見えないが、瞬にはそれがわかった。

氷河の手から栞を受け取った瞬が、
「ありがとう」
と礼を言うと、氷河の上機嫌のレベルは更にアップした。

「底なし沼に落とした紙くずひとつでも、おまえが取り戻したいものなら、俺は拾ってきてやる」
「その時には、必ず、氷河に頼むね」
「そうしろ」

子供じみていることは、氷河自身もわかっているのだろうが、瞬とそういうやりとりをすることが、彼は嬉しいらしい。
信頼の有無がどうこうという以前に、それは枕元で交わさないピロートークめいていた。


昨日の今朝で、すっかり氷河の機嫌が直ってしまったらしいのを見てとった紫龍が、氷河の目を盗んで、瞬に耳打ちをしてくる。
「しかし、おまえが氷河を信じきれてないというのは、なぜなんだ?」

氷河の機嫌が直っても、紫龍の謎は解明されていなかった。
仮にも氷河は、瞬にとって、命懸けの闘いを共にしてきた仲間である。普通のオトモダチ以上には堅い信頼で結ばれているはずの氷河に、『信じていないわけではない』などという微妙な言葉を使う瞬の心情が、実は紫龍には合点しきれていなかったのである。

問われた瞬が、困ったように肩をすくめる。
それから瞬は、薄く苦笑して、ぼやくように言った。
「だって、氷河、僕が今夜は1回だけでやめてほしいなーって期待してる時に、1回でやめてくれたことがないんだもん」

「へ……?」
瞬の氷河への信頼の薄さの根拠を聞かされて、紫龍は思い切り絶句した。

人間の人生における最も重要な、愛と信頼という二つの要素。
その二つが絡み合って作り出す恋人同士の交わりの複雑さを、その時、紫龍は初めて垣間見たような気がした。






Fin.






【menu】