瞬の心を安んじさせるために、アテナはすぐにエリシオンに偵察機を出してくれた。
しかし、アテナの命を受けてエリシオンに向かった者からの報告は、エリシオンの無憂宮に人の姿はなく、おそらくそこにいた人間は山を下りたのだろう──というものだった。

「そんな……」
氷河は怪我をしているのである。
頑健な人間でも登りきれるかどうかわからないエリシオンの山。
そして、険しい山というものは、登る時よりも下る時の方が危険が大きいのだ。

「あなたが帰ってくるかどうかわからない状況では、的確な判断だったと思うわ。判断力も決断力も行動力もある人間ね。彼の負った怪我が、命の危険性のない程度のものなら、多分──」

『多分』何だというのだろう。
その場しのぎの空事など、瞬は聞きたくもなかった。
氷河の無事な姿を見なければ、安心することはできない。

「僕を帰してください! 僕にヘリを貸して!」
氷河を捜さなければならない。
彼が無事なことを確かめ、そして、瞬は、自分の油断と不手際を氷河に詫びなければならなかった。

ハーデスなどよりはずっと、瞬の気持ちを解してくれるものと思っていたアテナの返答は、しかし、瞬の期待していたものとは違っていた。
「それはできないわ」
「なぜです!」

泣きそうな目をして訴えた瞬に、アテナが嘆息を漏らす。
それから、彼女は、まるで幼い子供をなだめるような口調で、瞬に告げた。
「あなたに生きようとする意志が希薄すぎるから……よ。あなたは長いこと、エリシオンでたったひとりで暮らしてきて、孤独に疲れ、生きていることに希望を持っていなくて、死ぬことを望んでいるようにさえ見える。なのに、そんなあなたの手には、この世界を滅ぼす力があるの。あなたが、この世界そのものを、自分の死の道連れにしないという保証がどこにあって? 私は、あなたをひとりにしておくことは危険だと、ずっと思っていたわ。まして──」

『氷河の捜索の結果が、瞬に絶望をもたらすものだったなら』
アテナは、その可能性を言葉にすることはしなかった。

「僕は、そんな……」
まさか、そんな懸念を抱かれていたとは。
瞬は、自分の絶望に他人を巻き添えにすることなど、一度たりとも考えたことはなかった。

「私が責任をもって、彼を捜し、その安全を確認します。でも、あなたをエリシオンに帰すわけにはいかないわ」
「…………」

瞬には返す言葉がなかった。
疑心暗鬼というものは、人の──神の──判断をも、たやすく狂わせるものらしい。
オリンポスの神々の中では最も聡明な女神と信じていたアテナの言葉に、瞬は打ちのめされた。そして、そんな疑いをオリンポスの神々に抱かせてしまった これまでの自分の言動を、心底から後悔したのである。






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