IV






氷河が手にしている剣が赤く見えるのは、ハーデスの血のせいなのか、それとも、自分の目に血の色が焼きついてしまったからなのか──。
瞬には、その判断もできなかった。
もしかしたら、それは、氷河の意思の色だったのかもしれない。

『おまえを取り返しにきた』

エリシオンの神域を無造作に侵してみせた“人間”は、ただそれだけのために、このオリンポスをも自らの剣の下に捻じ伏せようとしているのだろうか。
今となっては──この地上に存在する最大の神々の庭をも。

瞬は、信じられないものを見る思いで、氷河の姿を見あげ、見詰めた。

人には到底入り込めないはずのオリンポスの山。
険しい峰の連なりの奥で、人間を拒む威容を保ち続けていたオリンポス。
それすらも、氷河は、彼の肉体と意思の力で屈服させてしまったというのだろうか。

「瞬」
神よりも強い“人間”が差し延べてくる手を取る勇気が、今の瞬にはなかった。

「そんなこと、ありえない……。ここはオリンポスの最奥の──」
自分は今更 何を言っているのかと、瞬は思った。
現実に、氷河は、ここにいるというのに。

「邪魔をする奴は、みんな切り捨てた」
氷河が、事も無げに言う。
「おまえが言った通り、本当に、ただのひ弱な人間だった。葦の茎より造作なく切り捨てられた。もっと早くにこうしていれば、俺は幾人もの仲間を失わずに済んだろうに」

「…………」
氷河は、いったい、オリンポスの神々に、どれほどの数の同胞の命を奪われたのだろう。
そして、どれほどの数の“神”の血を、その長剣に吸わせたのか──。
瞬は、気が遠くなりかけていた。
壁に身体を預け、倒れずにいるので精一杯だった。

たった一振りの剣で、機銃やレーザーを備えたオリンポスの神たちを、怪我らしい怪我を負うこともなく退けてきたらしい氷河は、その言葉通りに、息も乱していなかった。
驚異的な反射能力、体力、腕力、驚くべき野蛮、そして、意思の力。

文明の恩恵の中で暮らしてきた瞬には、それは、圧倒的にも思える力だった。
感嘆と憧憬と怖れとが、瞬の心の中で、否、身体の中で、入り乱れるように渦巻いていた。

氷河が無事でいてくれたことは嬉しかった。
再会できたことも嬉しい。
彼がここまで来てくれたことも嬉しい。
しかも氷河は、ハーデスにさらわれた自分を救い出すために、この無謀に挑んでくれたのである。
だというのに──瞬は、氷河が怖ろしかった。

自分と同じものを殺せる人間、自分もその痛みを知っているはずなのに──傷付くことの痛みも、失うことの痛みも知っているはずなのに──それをやり遂げてしまう“人間”。

これが人間の持つ力だというのなら、必ず神は滅びる。
それは運命なのだと、瞬には確信できた。

自らの持つ科学力に奢り、自身の力ではないそれに頼り、あげく、保身のために、台頭してくる人間の抹消を計るような神に、自らの力で前に進もうとしない神に、“人間”へのどんな対抗の術があるだろう。

氷河は──人間は──未知の危険にも、計り知れない脅威にも、ひるむことをしない。
神は──神ならば、避けること、逃げることを、まず考えるというのに。

強く、たくましく、野蛮で美しい“人間”──。
瞬は、この氷河の手にかかって滅びていくことができるのなら、自分の死も神々の滅亡も、それは絶望ではなく希望のような気がした。


「来い。ここを出る」
その“人間”が、瞬に手を差し延べてくる──。






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