人はいつでも、大切なものを失ってから後悔する。 『生きているうちにもっと』、『失う前になぜそうできなかったのか』と──失ってしまってから初めて、人は、自分の甘えを悔やむのだ。 氷河にも、瞬の後悔を消してやることはできなかった。 それは、氷河自身がいつも抱き続けてきた後悔でもあったから。 「──誰でも後悔はするさ」 氷河の呟きを聞いた瞬が、涙に濡れた瞳で、自分の目の前に立つ氷河を見あげる。 そして、瞬は、氷河も自分と同じように大切な人を幾人も失ってきたのだということを思い出し、自身の甘えを言葉にしてしまったことを後悔した。 人は本当に、後悔だけを重ねて生きていくしかない生き物なのかもしれない。 自分の浅はかさを後悔して、また新しい涙の雫を零しかけた瞬の肩に、氷河が右の手を置く。 「多分、だから、人に優しくなろうと思うことができるんだ」 「氷河……」 まさに今、その言葉通りに、氷河に 必死の思いで、瞬は、涙を拭った。 そして、無理に笑顔を作った。 「だとしたら──そうなんだとしたら、人の優しさって、悲しみでできているものだね」 「だが、それが本当の優しさだろう。白雪姫も、自分の後悔や悲しみを他人に見せなかっただけなのかもしれない」 瞬にそう言いながら氷河はふと、あの老婦人は、本当はすべてを知っていたのではないかと思ったのである。 瞬が自分の娘でないことも、自分の娘の命がずっと以前に失われてしまったことも。 彼女の演技がいつ始まったのかはわからない。 それは、もしかしたら60年前だったのかもしれないし、この国が平穏を取り戻してからのことだったかもしれない。 あるいは、彼女が自分自身の死期を悟った時だったのかもしれない。 彼女はもしかしたら、残される人に──彼女の夫に──“後悔”を抱かせないために、自分の幸福な最期を演出したのではないかと、氷河は思った。 そして、瞬があんな姿をして彼女の前に現れた時、大切な人を幸福にするために幸福を演じていたはずの自分もまた、自分以外の人間から幸福を分け与えられていたことを、彼女は知ったのだろう。 瞬があんなことまでしてくれるのは、彼女にとっては意想外のことで、だから、彼女は最期に、『さようなら』の代わりに『ありがとう』と言ったのではないか──。 取り乱していた瞬や品川氏は聞き取れていなかったようだったが、氷河の耳には、老婦人の最期の言葉が、 『ありがとう、 と聞こえていたのだ。 だとしたら、優しさだけでなく、人の幸せも強さも、それは悲しみでできているものである。 そして、だからこそ、それらのものは美しいのかもしれなかった。 「……瞬、彼女は、本当は──」 氷河は、自分の推察を口にしかけ、そして、やめた。 そんな根拠のあやふやな憶測を、今更口にしても始まらない。 白雪姫の心は、誰にもわからないのだ。 代わりに氷河は、涙が乾ききっていない瞬の肩を、包むようにふわりと抱き寄せた。 城戸邸の庭には、まだ少し冬の気配が残っている。 瞬を強く抱きしめてしまうには、春はまだ浅すぎた。 Fin.
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