幸い、無意味に苦悩を一人で抱え込み、恋人を狂気の淵に追い込んだハムレットほどには、氷河は、陰にこもった性格をしていなかった。
彼は、覚悟を決め、おもむろに、彼をためらわせている重大な“問題”を、彼の恋人に告白した。
「──ないんだ」

「え?」
『ない』とは、どういうことなのだろう?
まさか、氷河の元気なご子息が家出したとでも言うのだろうか?
いくら元気のいいご子息でも、それが不可能なことくらいは瞬にもわかる。
故に、結局、瞬は首をかしげることしかできなかった。

何がないのかがわからずにいるらしい瞬の様子を見てとった氷河が、忌々しげに舌打ちをする。
無論、それは、氷河の“ないもの”を察することができずにいる瞬にではなく、それを持っていない自分に対する舌打ちだった。
9分9厘 ヤケになって、氷河はがなり声をあげた。
「だからだなっ、したことがないんだっ!」

「……は?」
氷河の怒声とも嘆声ともつかない声に驚いて、瞬は瞳を見開いた。
瞬自身は、自分が、氷河の“問題”の内容に驚いたのか、あるいは、その声の捨て鉢な響きに驚いたのかがわかっていなかったのだが──どちらかといえば、後者だったのだが──、氷河は勝手に前者だと決めつけて、すぐに自身の弁明にとりかかった。

「いや、もちろん、基本的にどういうことをすればいいのかはわかっているぞ。だが、不慣れどころか未経験だから……不手際をして失敗するかもしれないし、それでおまえをがっかりさせるかもしれない。それだけならまだいいが、もし俺が未熟なせいでおまえを傷付けたりしら、俺はどうすればいいのか──」

あまり粋とは言い難い──むしろ不様この上ない──言い訳を口にしているうちに、氷河の胸中には無念の思いが生まれてきたらしい。
彼は悔しそうに顔を歪めた。
「こんなことなら、おまえを好きになる前に、他の誰かで練習しておけばよかったんだ……! おまえを好きになった後では、おまえ以外の奴とそういうコトに及ぶのは、不誠実とゆーか、何とゆーか──いや、ていに言うと、おまえでないと、興醒めしてちそうにない」

「氷河……」
瞬には、氷河の無念の表情と声音の訳が、まるでわからなかった。

「な……なんだ、そんなことだったんだ。僕、氷河がこれまでの闘いの間に怪我して、そういうことができない身体になっちゃったんだとばっかり……。なんだ、心配して損しちゃった」
氷河は何かを失ったわけではない。
自分たちの間には、苦しいことも悲しむべきことも何も起きてはいない。
ならば、いったい何を悔しがることがあるだろう。

「心配しなくて大丈夫だよ!」
瞬は明るい笑顔で、屈託なく言い切った。
「僕もしたことないから!」
自信満々で、きっぱりと。


「…………」
多分そうなのだろうとは思っていたが、やはり自分たちのそれは、未経験者同士の非常に危なっかしいものにならざるを得ない──らしい。
本来なら喜んでいいはずのことである瞬の無垢を、素直に喜んでしまえない自分が、氷河は情けなくてならなかった。

その上。
あろうことか、瞬は、やる気満々でいるのだった。






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