「おい、氷河。それをやめろ」
「あ?」
ふいに紫龍が、俺に嫌そうな視線を向け、嫌そうな口調で言う。
俺は最初、奴が何をやめろと言ったのかがわからなかった。

戦闘のない時の俺たちは、極めてヒマな人間だ。
瞬は長椅子に腰掛けて、ラウンジの正面奥の壁のプロジェクタースクリーンに映る、どこぞのオーケストラのタンホイザーの演奏を視聴していた。
音が聴ければそれでいい俺は(音を聴いていた記憶もないが)、瞬の膝に頭を置いて寝転んでいた。
で、どうやら、その間俺はずっと、瞬の人差し指をくわえ、舐めていた──らしい。
紫龍がやめろと言ったのは、俺のその指しゃぶり、だった。

俺は無意識にそれをしていた。
注意されて初めて気付き、俺は瞬の指を解放して長椅子の上に身体を起こした。
紫龍の言う通りにしたのに、奴はそんな俺を見るとますます嫌そうな顔になって、つまらない御託を垂れ流し始めやがった。

「そーゆーのを口唇性欲と言うんだぞ。口唇の粘膜に刺激を与え、快感を得ようとする衝動だな。フロイト博士曰く、口唇的行動は、生後1年ほどの幼児の段階で母親への失望体験を経験した者に多く見られ、受動性・依存性・自分の能力に対する疑いに結びついて現れる。性的には、性交そのものよりクンニリングス・フェラチオあるいはキスのほうに関心が集中することが多く──」

いったいそれはどこの本の受け売りだ。
俺を性倒錯者に仕立て上げたいのなら、あいにくだな。
俺はその機会さえ与えられれば、口唇の刺激抜きで幾らでもヤりまくれる。

──なんて反論を、瞬のいる場所で言えるわけがない。
瞬に聞き苦しさを与えない婉曲的な表現の言葉を捜すのに時間をとられ、俺は即座に奴に言い返すことができなかった。
そんな俺の代わりに、畏れ多くも勿体なくも、瞬が紫龍を糾弾してくれる。

「紫龍!」
が、瞬の反駁の論拠は、かなり事実と異なるものだった。
なにしろ、瞬は、
「氷河はきっとおなかがすいてるだけだよ」
と、真顔で言ってのけたのだから。
どうやら瞬は、そう考えて、俺からおしゃぶりを取りあげずにいてくれたらしい。

確かに俺は飢えていた。
半月も瞬を食わせてもらえずにいた俺は、もう餓死寸前だった。
それは、事実だったのだが。

「腹が、ね」
紫龍が、馬鹿にしたような視線を俺に向けてくる。
多分、紫龍は、俺が何に飢えているのかを、瞬よりは正しく察しているだろう。
第三者である紫龍にわかることが、なぜ当事者である瞬に通じないのか、俺はどうにも解せない気分になった。

「さっき、お昼ご飯食べたばっかりなのにね。お茶と──何か つまめるものを捜してくるよ」
勘違いしまくっている瞬が、そう言って、掛けていた椅子から立ちあがる。

「あ、俺、キッチンの棚にイモヨーカンが隠してあるの知ってる。きっと、沙織さんが、あとで一人で食うつもりでいるんだ! 許せねーよな!」
その場で最も腹をすせていたのは、俺じゃなく星矢だったらしい。
勝手にもらったら後で雷を落とされるのではないかと渋る瞬を引っぱって、星矢は意気揚々とラウンジを出ていった。






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