「とにかく、奴はデスクイーン島から生きて帰ってきた。おまえが一輝のせいで悲しんでるのを見た時、俺は、それまで見えない蜘蛛の巣みたいに鬱陶しく俺にまとわりついていた奴への憎悪を再確認した。その上、奴は殺生谷では散々俺を侮辱してくれたしな」
「…………」

なんだか僕は、僕がおかしいのか、氷河がおかしいのか、よくわからなくなってきていた。
氷河の言葉を言葉通りに受け取るなら──自分が侮辱されたくらいのことで、人は人に憎悪を抱くものなんだろうか?
自分がどういう人間なのかを最もよく知っているのは自分自身のはずだ。
他人がどんなふうに自分を侮辱したとしても、真実は自分の中にある。
他人のたわ言なんて無視すればいいだけのことだし、もし真実を言い当てられたのなら、それは侮辱じゃない。

氷河が、氷河のお母さんを侮辱されたことを恨みに思うのなら、僕にもそれはわかるんだ。
兄さんや氷河たちを侮辱され傷付けられたら、僕だって怒るもの。本気で。
けど──。

「俺を侮辱できる立場にあると思っているのか、あいつは。だいたい奴の裏切りの理由が馬鹿すぎる。おまえのために、俺を差し置いて、奴は自分の望みを叶えたんだ。それを今更! 確かに、奴の師匠は極めつけの阿呆だったらしいし、おまえに似た娘の死に目に立ち合う羽目になったことも不運だ。俺も、奴の不運は認める。だが、それはただそれだけのことだろう」

ただそれだけのこと……って、それがどれだけつらいことなのかが、氷河にはわからないの?
兄さんは、兄さんの大切な人の死に立ち合ってきたんだよ。氷河と同じように。
どうして、されだけのことだなんて、氷河は言ってしまえるの。

なのに、氷河は、自分と同じ辛い経験をした相手に、まるで容赦がなかった。
「おまえのためにしたいことをできたのに、そんなことで馬鹿なヤンキーみたいにグレるなんざ、阿呆もいいところだ。俺なら、喜んで試練に耐える」

「兄さんは──あの……兄さんは繊細なの」
「面白い見解だ」
氷河は、僕の言葉に冷めた笑いを返してきた。
僕は、氷河と・・・同じ・・ように・・・兄さんは繊細なんだと言ったのに。
そして、それは事実なのに。

氷河の言うことはわからないでもない。
兄さんの師だったという人のことだって、僕は兄さんから話を聞いただけだけど、それでも本当はいい人だったんじゃないかっていう考えを捨て切れないでいる。
子供の心に憎悪を植えつけるのは決して正しい指導方法じゃないけど、絶望しかけている非力な子供に生きるための意欲を抱かせるには、それは最も手っ取り早い方法だと思う。

大人の勝手に翻弄されて、足手まといの僕を抱えて、兄さんの周囲にはいつも苦しいことしかなかった。
人間や人間の生きる世界をそれでも愛せと言われるより、憎んで生きる方が、まだ子供だった兄さんには簡単なことだったかもしれないし、その方が受け入れやすいことだったかもしれない。
実際、それで、兄さんは生き延びることができたんだ。
僕は、兄さんの師だったという人に感謝さえしている。
彼は、とにかく、兄さんを生き延びさせてくれた。
生きる力を、彼は兄さんに与えてくれたんだから。

まっさらな子供の心は、周囲から与えられた色に染まりやすいもの。
そして、子供の頃に得た色は、いつまでも消えずにあとあとまで残るものだ。
どんなに大人になっても、人はその色を変化させていくことしかできない。
無理に心を憎悪の色に染められようとしている中で、唯一安らぎを与えてくれる存在だった少女の死を目の当たりにして、兄さんはとてつもない衝撃を受けたと思う。
その人は、兄さんの心の憎悪の色を別の色に塗り替える力を持っていた人だったんだろうから。

そりゃ、だからって、同じように辛い思いをして生き延びてきた仲間たちを恨むのは、論理が飛躍しすぎてるし、逆恨みだとは思うけど、でも、それは兄さんが繊細だからだよ。
氷河と同じように。

この世界には、憎む相手を持つことで生きる力を得る人だっている。
そんなふうにでも、生きていてくれさえしたら、僕はそれでいいと思う。嬉しいと思う。
これは決して甘い考えじゃない。
人を憎んで生きている人は不幸だもの。
それでも生きていてほしいと、僕は冷酷に思うんだから。

それがどうして氷河にはわからないんだろう。
それは、氷河や兄さんほどには繊細じゃない僕にだって簡単にわかることなのに!






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