「ウスノロよりのろい奴等は何と呼べばいいんだ」
夕日を受けたエチオピアの薔薇色の海は、その海面の色を紫色に変えつつある。
邪魔者をすべて倒してしまったヒョウガは、鎖に繋がれているシュンの姿を改めてまじまじと眺め、笑いながらシュンに問うた。

「にしても、いい格好だな、目の保養になる」
「ヒョウガ!」
ウスノロよりのろい者たちにヒョウガが倒されることはないだろうと思ってはいたのだが、彼等はただのウスノロと違って悪知恵というものを持っている。
その場にヒョウガと波の他に動くものがなくなったことを認めると、シュンは瞳に安堵の色を浮かべた。
ヒョウガの剣は血で濡れていない。
ウスノロ以上のウスノロは、彼にとって命を奪うほどの価値もなかったらしい。

シュンは、シュンの繋がれている岩棚に戻ってきたヒョウガがすぐに鎖を断ち切ってくれると思っていたのだが、彼はそうしようとはしなかった。
ヒョウガが、鎖に繋がれているシュンの頬に手を伸ばしてくる。
「こういう状態でないと、おまえはキスもさせてくれないだろう?」

ヒョウガがこんな時に こんな場面でまで悪ふざけに及ぼうとしていることに気付いて、シュンは彼を睨みつけた。
近付いてくる彼の唇を、固く唇を引き結んだままで拒む。
シュンのつれない態度にめげた様子も見せずに、ヒョウガは、頑ななシュンの唇の代わりに、彼を拒むことのできないシュンの頬や耳許に唇を這わせながら囁いた。

「初めて会った時、おまえは俺に、自分の命と他人の命のどっちが大切なんだと怒鳴った。自分が自分の命を失おうとしている時に。俺は最初はおまえを馬鹿だと思ったぞ」
「だからどうしたっていうんです」
憎らしいことばかり言うヒョウガに、シュンの口調はつい挑戦的になる。

「察しの悪い奴だな。馬鹿だから惚れたと言っている」
ヒョウガの唇が、再度シュンのそれに重ねられる。
シュンは、観念して唇を開き、今度はヒョウガを受け入れた。
『馬鹿だから』――好かれる理由も、好きになる理由も、それで十分な気がした。

「鎖を外したら、俺から逃げるか」
ヒョウガがシュンの耳許で再び囁く。
いつも自信に満ちていたヒョウガが、どうやら本気でシュンの逃亡を怖れているらしいことを、その声の響きで感じ取り、シュンは無言で首を横に振った。
途端に、ヒョウガの唇がシュンの唇に戻ってくる。

ヒョウガはシュンの答えに安堵し、喜んでいるようだった。
子供のように素直で単純なヒョウガの反応に、シュンは意外なものを見る思いで――少し笑った。
そして、ほとんど目を閉じたままで、彼に尋ねた。

「偽の神託を出させて、エチオピアの王や国民を騙して――ヒョウガには恐いものがないの?」
「おまえに嫌われるのが恐い」
ヒョウガはいったいどこまでが本気で本音なのか――困惑するシュンの心臓の上にヒョウガの手が置かれ、その指先が、シュンに奇妙な感覚を喚起させる遊びを始める。
もう一方の手で、ヒョウガは、鎖に繋がれたままのシュンの腕を、手首から肩にかけてゆっくりと愛撫した。
血がほとんど通わず、何も感じないはずの腕。
何も感じないことに、シュンは逆説的に何かを感じ始めていた。






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