カーサ国王の用意してくれた馬車で北に向かって丸2日。
やがて瞬は小さな北の町に着きました。

人通りの少ない活気のない町。
通りの端のあちこちには、飢えて身動きもできないでいるらしい子供や老人たちがうずくまっています。
国王の10倍も金持ちといわれている公爵のお膝元にありながら、そこはとても貧しい町でした。
その貧しい町を見おろす丘に、壮麗な城がそびえています。
それが、この国の北方半分を自領としている公爵の居城でした。

そのお城の門をくぐった瞬は、自分が別世界に足を踏み入れたのかと思うほど驚いてしまったのです。
そこには色とりどりの薔薇が咲き乱れる広い庭園があり、辺りは甘い香りで満ちていました。
お城の中では、昼間だというのにどの部屋でも明るいシャンデリアが輝いていて、その上、豪華な調度に掃除の行き届いたぴかぴかの床、信じられないほど精密な絵の描かれた高い天井。
都で見たカーサ国王のお城に比べたら雲泥の差です。
カーサ国王の城が陰気な廃城だとしたら、ここは天国の王の住む城にも見えました。

けれど、その贅沢さが城の外の貧しさに比べるとうそ寒く感じられて、暖かく華やかなお城の一室で、瞬はひどい寒気を覚えたのです。
このお城の主は、城の外に住む人々が今どんな生活をしているのか知っているのでしょうか。
知らないのだとしても、知っていながら領民に手を差し延べようとしていないのだとしても、こんな怠慢は許せない――と、瞬は思いました。

「また送り込んできたのか。あの国王も懲りない男だな」
やがて瞬の前に現れた公爵の声は、瞬が想像していたよりずっと若々しいものでした。
公爵は、裾にたくさんの真珠が散りばめられた黒いビロードの長衣を身に着けていて、その様子はまるで明るいお城の部屋の中に死神が現れたよう。

公爵の顔は、黒い長衣についているフードで隠されていました。
そのため瞬は、あの噂の真偽を確かめることはできませんでしたが、彼の髪が金の色をしていることはわかりました。
背も高く、体格も立派。
北の地の公爵は、どう見ても せいぜい20代の青年のようでした。

「妻という相続人を作って、俺を始末し、どこからも誰からも文句の出ないように公爵家の財産を奪い取ろうという腹なんだろうが、国王も浅はかだな。自分が送り込んだ者が、国王以上の富を得てもなお、自分の言うことを聞いて、我が物になった財産を素直に他人に手渡すと思っているのか」

公爵は、瞬に名を尋ねることもせず、瞬に口をきくことも許さず、勝手なことを言っています。
その内容から察するに、公爵はどうやら瞬を自分の花嫁候補だと思っているようでした。
それも、公爵の命と財産が目的の。

なんだかひねくれた考え方だと、瞬は思ったのです。
もし誰かが公爵家の財産を手に入れることがあったなら、その人は、喜んで手に入れた富をみんなに分け与えるに決まっています。
そうすることで、多くの飢えた人たちの命を救うことができるのですから。

国中が飢えた人間でいっぱいなのに、自分だけ贅沢なお城でおいしいものをおなかいっぱい食べているなんて、とても心苦しいものではありませんか。
神様だってお許しになるはずがありません。
カーサ国王だって、公爵の莫大な財を国民のために使って欲しいと願っているだけ――のはずです。

ただ、瞬を公爵の許に送り出す時にカーサ国王が言ったあの言葉が、瞬の心のどこかに引っかかっていて――そのせいで瞬は真っ向から公爵に反論することができなかったのです。
代わりに瞬は、公爵にぺこりとお辞儀をして、名を名乗りました。

「僕は男です。瞬といいます。公爵様の花嫁候補ではありません。使用人として使ってほしくて、このお城にやってきました。明日食べるパンもなくて、働き口もなくて、だから……。国王様は勝手に僕を少女だと勘違いされたようですが、僕はただこの城で働かせてもらいたいだけなんです」

「では、おまえは国王の刺客か」
「え……?」
突然思いがけないことを、それも実に淡々とした口調で言われて、瞬は瞳を見開いてしまったのです。
『刺客』というのは、人の命を奪う役目を担った人間のことを指す言葉のはずです。
人の命を奪うという事柄を――それも公爵自身の命を奪うということを――まるで庭の薔薇の美しさを評するみたいに簡単に口にしてしまえる公爵に、瞬は驚かずにはいられなかったのでした。

「あの腹黒な国王の欲しいものは、俺の領地と公爵家の財産だろう。俺に妻を当てがった上での公爵家乗っ取りを不可能と悟って、もっと直接的な手に出たわけだ。素直にくれと言えば、命でも財産でも俺は喜んでくれてやるのに、あの国王はそういう発想だけはないんだな」
「僕はそんなんじゃ……」

瞬はもちろんすぐに公爵の邪推と誤解を否定しようとしたのです。
瞬は、そんなつもりでここに来たのではありませんでした。
人の命を奪うなんていう そんな大罪を、そもそも人が気安く犯せるはずがないではありませんか。
けれど――。

『万一、身の危険を感じるようなことがあったら、公爵の命を奪ってもよいぞ。そういうことになっても、悪いようにはしない』
瞬はその時、カーサ国王のあの言葉を、もう一度はっきり思い出したのです。
公爵だけでなくカーサ国王も、神の教えに背くその大罪を、大した行為ではないように口にしていました。

もしかするとあの言葉は、瞬の身を案じた忠告ではなく、国王から彼の臣民への命令だったのでしょうか。
自分はもしかしたらとんでもない陰謀に巻き込まれてしまったのでしょうか。
そんな不安に囚われ始めた瞬の前で、公爵が呻くように呟きます。
「財産なんて、そんなものがあるせいで、俺はこんなに苦しんでいるというのに」

瞬は何が何だかよくわからなくなってきてしまったのです。
このお城は、そして、あのカーサ国王のお城も、一切れのパンを得るために身を粉にして働く人々の住む世界とは まるで違う常識で動いている世界のような気がしてきました。

「こんな子供に人殺しをさせるか……」
「あの……」
金色の髪の公爵の声は、とても悲しそうでした。
――悲しみ。
それなら瞬にも理解できる感情です。
このお城も、カーサ国王のお城も、自分が暮らしていた下町と違う世界に存在するはずがない――と、瞬は自分自身に言いきかせ、落ち着こうとしました。






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