涙で作られた水面が揺れている。
氷河が目覚めた時、彼の目の前には、心細げな さざ波をたたえた瞬の瞳があった。
それは不安と懸念に揺れていて、あの世界で“氷河”の不在に心弱くなっていた瞬のそれに酷似していた。

だが氷河には、それが自分の瞬の瞳だとすぐにわかったのである。
無思慮な言葉で自分を突き放した男の帰還を、これほど喜んでくれる瞬が他にいるはずがない。
氷河にそう確信させるほどに――氷河の覚醒に気付いた瞬の瞳は、その瞬間に 鮮やかに明るく輝いた。

「氷河、気がついたの!」
弾んだ声を辺りに響かせた瞬は、もちろん衣服を身に着けていた。
氷河のベッドの横でずっと、瞬は目覚めぬ男を見守ってくれていたらしい。
「氷河ってば、丸一日近く、目を覚ましてくれないから――夢の世界に行ったきりになっちゃったのかと思った……」

どうやら あの世界で過ごしたのと同じだけ、この世界でも時間は経過してるらしい。
そして、別世界の氷河は、この世界には来てはいないようだった。

瞬の瞳は涙の膜でぼやけている。
氷河は、今日はその瞳に出合っても視線を逸らすことをせずに、その瞳に見入った。
瞬が何を求めているのか――それははっきりと瞬の瞳に映っていた。
揺れる水面の向こう、水底に沈んでいるそれは氷河自身の姿で、その姿を見た氷河は、思い切って うぬぼれてしまうことにしたのである。

寝台の上に上体を起こし、氷河は、あの世界の瞬の助言通りのことを、瞬に言ってみた。
「瞬、おまえ、何か欲しいものはないか」
「氷河……」

せっかく目覚めてくれたのに、突然脈絡もなくそんなことを言い出した氷河のせいで、瞬の中には新しい心配の気持ちが生まれてきたらしい。
不安そうな瞬の唇から、氷河の名が洩れる。
氷河は勝手に、それを瞬の答えと解した振りをした。

「俺か?」
「そ……そういう意味じゃなくて……!」
「違うのか」
目を逸らさずに、氷河は瞬に尋ねた。
すると瞬は、驚いたことに、短い沈黙のあとで、僅かに瞼を伏せながら、
「――違わないけど」
と、答えてくれたのだった。

氷河はもう ためらわずに、瞬の身体を引き寄せ抱きしめた。
瞬に抗う隙を与えないために、その耳許に謝罪の言葉を囁く。
「夕べは悪かった。俺が、俺に構うなと言ったのは、おまえにもっと構ってほしかったからなんだ。――すまん」
「僕は……」

瞬は、最初は、何か別のことを言おうとしたらしい。
氷河の腕の中にある瞬の肩が微かに強張った。
だがすぐに その肩からは力が抜け、結局 瞬の唇から洩れたのは 小さな溜め息と、
「よかった」
という小さな呟きだけだった。

掛け違えたボタンが確かに元の場所に戻ったことを、氷河はその時に確信したのである。
あの瞬のいる世界が並列世界の中の一つだったのか、あるいは、あの瞬が言っていたように、氷河の心が生んだ幻影に過ぎなかったのかは、氷河にはわからない。
氷河が幻ではなく現実の瞬を抱きしめている今、もしかしたら、あの世界とあの世界にいた瞬は消えてしまっているのかもしれない。

それでも氷河は、あの世界の瞬が、あの世界の氷河に出会えていることを願わずにはいられなかった。
そして、あの世界の瞬という存在に報いるために、この世界で瞬を一人にすることだけはすまいと思った。


人の心、人が存在すること、その世界。
何もかもが頼りなく あやふやなそれらのものを、確かな実在と 氷河に信じさせる根拠は、今 彼の腕の中にある小さな温もりだけで、それを手放すことは到底考えられない。
奇跡のようなその温もりを、氷河は固く抱きしめた。






Fin.






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