どれほど下に落ちたのか、どれほどの時間 気を失っていたのかはわからない。
意識を取り戻した氷河が その場で身体を立て直した時、彼の目の前にあったのは、雪と氷、そして空すらも白い世界。
真冬のシベリアの果てよりも、ただただ白い世界だった。

「今年は豊作だね、珍しい」
いったい自分はどこにいるのかと訝りながら周囲を見まわした氷河の背後から、突然高慢そうな女の声が響いてくる。

振り返った氷河は、最初、自分の目の前にいる少女を、冬を支配する魔女か妖怪の類だと思ったのである。
白い世界で、白いドレスを身にまとい、氷雪を支配する孤高の女王。
青く見えるほどに白い白銀の髪。
少女のような面立ちの後ろに老婆の影が重なっているように――彼女は非常に美しくはあったが、その眼差しは到底血のかよった人間のそれとは思われないほど冷めていて、それゆえにその貌はひどく不気味に見えた。

その白い女性が、氷河の当惑など意に介した様子もなく、上から見下ろすような態度で氷河に命じてくる。
「おまえもなかなか綺麗だ。気に入ったから、ここにおいで」
(おまえ……?)

氷河は、自分を『おまえもなかなか』程度にする容貌の持ち主を、瞬以外に知らなかった。
その言葉から察するに、彼女は、ごく最近、そういう人物に会ったことがあるらしい。
瞬はここにいるのだと、氷河は確信した。

シベリアの原を、遊び場――のちには修行の地――として熟知している氷河にも見覚えのない奇妙で不自然な場所。
瞬の小宇宙を完全に遮断できる自然が尋常な世界にあるはずもなく、だとしたら瞬は不自然な場所に――ここに――いるに違いないのだ。
もちろん、瞬が既に死んでしまっているのなら話は別だが、氷河はそんな可能性を考えたくもなかった。

「ここはどこだ。おまえは何者だ」
「自分の名も名乗らず、他人に誰何すいかしてくるとは、礼儀のなっていない人間だ」
「氷河」

自らの無礼を反省したからではなく、早く用件に入るために、氷河は呆れるほど手短に自分の名を名乗った。
形ばかりの氷河の礼儀に、白い魔女がやはり形ばかりの作法で名を名乗ってくる。
「私の名はエリス。この城の主」
「エリス?」

氷河は、同じ名の女神を知っていた。
その命を、憎悪と妬みで作りあげた復讐の女神。
氷河は改めて自分の前に立つ得体の知れないもの・・の顔を確認しようとしたのだが、あいにく彼女の白い容貌がその顔立ちをはっきりさせず、二人が同じ存在なのか否かを判断することは氷河にはできなかった。

エリスと名乗った女性の視線の先には、確かに城があった。
さほど大きくはない、雪と氷で作られたような純白の城が。
この世界には、本当に白いものしかないらしい。
そして、その白は、眩しい陽光の白ではなく、あくまでも虚無の色を呈している。

「雪祭りの余興……ではないようだな」
独り言のように呟いてから、氷河は彼の用件に入った。
「俺より先に、ここに客人が来たはずだ」
「あの子の仲間か? だが、それにしては――」

氷河の“用件”を聞いたエリスの声音が、僅かに意外の色を含む。
それから彼女は、顎をしゃくるようにして氷河に頷いてみせた。
あれ・・は、あまりこの城向きの客人ではないようだったが、この白い世界に彩りを添えてくれそうだったので、城中に留め置いている」
「いるんだな、どこだ!」

その事実さえ確認できれば、氷雪の魔女などに用はない。
氷河は、近くにあるのか遠くにあるのか、どうにも正確に把握しきれない氷の城に向かって駆け出した。
どこか不自然なこの場所から、一刻も早く瞬を連れ帰らなければならない。
自分が今いる場所に不気味な違和感を覚えていた氷河は、まるで強迫観念のように その思いに急きたてられ、案内も請わずにその城の中に駆け込んだ。

途端に、奇妙な感覚に襲われる。
その感覚に、氷河は心覚えがあった。
彼は、過去に経験したその感覚の記憶を呼び起こそうとし、そして思い出した。
それは、十二宮での戦いのさなかに、双児宮に足を踏み入れた時の感覚に酷似していた。
実際に、その二つは同じようなものだったのかもしれない。
その城の中は、尋常の空間とは思えない、不可思議な代物だった。

雪氷の城の壁は、白色や透明の氷でできていた。
氷の壁が鏡に似た効果をかもし、正確に奥行きの把握ができない。
氷河の目には幾つもの部屋が重なっているように見え、それはさながら氷の作り出す大掛かりなパノラマのようだった。

そのはるか向こう――もしかしたら、ごく近い場所――に、瞬の姿が映った。――ような気がした。






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