御影石に『城戸』と刻まれた大仰な表札。
その表札の掛けられている門を中心に、白御影の石塀が東西に伸びている。
その端から端までの距離は優に1キロはありそうだった。
石塀の内側には小さな林があるらしく、西側の塀には豊かな緑の葉をたたえた楡の木の枝が覆いかぶさっている。
広大な国土を持つロシアにあった自分の小さなアパートと、狭い国土の中にある広大な邸宅とを胸中で比較して、氷河は馬鹿げた矛盾のようなものを感じていた。

屋敷そのものの造りは洋風で、古めかしさはあまりない。
この家の財は 立志伝中の男が一代で築いたものだという話だったから、この屋敷が建てられたのは、古くてもせいぜい半世紀前なのだろう。

しかし、その財を受け継ぐはずの息子は二人とも父に先立ち、内ひとりは故国を捨てさえした。
どういう心理が、祖父に己れの孫を長年捨て置かせたのかは 氷河にはわからなかった――が、そこには巨大な財になど縁もゆかりもない人間には理解し難い何かがあったのかもしれないと、氷河は意識して好意的に考えることをしてみた。
努力だけはしてみた――のだが。

案内された居間とも客間ともつかない豪奢な部屋の壁に、どういう悪趣味なのかは知らないが、氷河の祖父だという男の肖像画が掛けられているのを見た途端、氷河はその努力を早々に放棄してしまったのである。
白い髭を蓄えた、良く言えば謹厳、悪く言えば傲岸そうな老人。
対峙する者を威圧するような面相は、確かに、息子の国境を越えた恋を喜ぶ父親のそれには見えない。

この圧倒的な威厳を持つ老人が、たとえ死に直面していたとはいえ、心弱くなって孫との対面を望むだろうか。
氷河には、とてもそうは思えなかった。
やはり、それは自分の築いた財の行方を案じての世迷い言だったのだろう――と思う。

「――こんなことになるなら、生きているうちに来日して、悪態をついてやればよかった。どこまで憎たらしいじじいだ!」
氷河をその部屋に案内してきたメイドは既に退室していた。
氷河は人に聞かれる可能性を全く考えずに大きく舌打ちをして、祖父の肖像に向かってそう毒づいたのである。
まさにその瞬間――悪趣味な部屋のドアが開いた。

「……フォントルロイ卿が来てくれたのだと思ったのに」
苦笑混じりの――変声期前の少年のそれとしか思えない声が室内に響き、氷河はその声に弾かれるように後ろを振り返った。
氷河が振り向いたドアの前に、どう考えても変声期は過ぎていると思われる年齢の少年がひとり立っている。
「口の悪いセドリックだね」

フォントルロイ卿というのが何なのか、氷河はすぐには思い出せなかった。
しばしの間をおいてから、それが何者なのかを思い出す。

バーネット夫人ことフランシス・ホジソン バーネットが19世紀後半に書いた物語、『小公子――Little Lord Fauntleroy――』。
フォントルロイ卿というのは、後継者のなくなった伯爵家を継ぐためにアメリカからイギリスに渡った小公子の、伯爵家を継ぐまでの称号だった。
主人公の名はセドリック・エロル。
氷河の記憶するフォントルロイ卿ことセドリック・エロルは、快活で優しく純真で思い遣りに満ち、誰からも愛され誰からも守られるという特技を持つ、天使のような――気持ちの悪い子供だった。

自分自身にそんなものを重ねて見られることは、氷河には不愉快極まりないことだったのである。
だが、彼は、彼をフォントルロイ卿と呼んだ少年に悪態をつくことはできなかった。

肩幅のない華奢としか言いようのない身体に 鈍色のスーツを身に着け、邪気なく輝く大きな瞳をたたえて姿勢よく立つ小柄な少年。
氷河は、小公女が現れたのだと思った。



■ 参照 小公子 By Frances Eliza Hodgson Burnett



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